きら星のような殿様たち
2015年02月22日
2代目板谷宮吉夫婦
小樽商業会議所(小樽商工会議所の前身として1895年(明治28)創立)の創立議員には、野口家隆盛の糸口を作った石橋彦三郎はじめ、藤山要吉、山田吉兵衛、板谷宮吉、高橋直治など、幕末生まれの猛者たちが名を連ねている。彼らに共通するのは、江戸時代の江差・松前で財を成した大商人たちのもとに飛び込み、刻苦勉励して身代を築いた点だ。
藤山要吉は嘉永四年の秋田県生まれ。松前の廻船問屋に雇われたが、小樽の発展を見越して小樽に移住。廻船問屋藤山家の養子になり、持ち船が第一次世界大戦の政府用船となって巨利を上げ、網元、農場、炭鉱、銀行、倉庫、鉄工所など手広く経営した。山田吉兵衛は安政二年の松前生まれ。小樽の富豪山田家の養子になり、弱冠十六歳で開拓使から金穀御用達を拝命した俊英だ。小樽区長として港湾整備に尽力した。道路を自費で開いたことに地域住民が感謝し、小樽には山田町の地名が残る。
安政三年生まれで新潟県出身の高橋直治は十八歳で小樽に渡り、苦労の末、米穀海産品商を開業。実弟と高橋合名会社を興し、雑穀業者として手腕を発揮した。第一次世界大戦の戦場となって菜糖類の生産が落ち込んだヨーロッパへ小豆を直接輸出したことで、ロンドン市場をも左右する力を有し、小豆将軍と呼ばれた。同じく新潟県で安政四年に生まれた板谷宮吉は、海産商に勤めた後に米穀・雑貨商を始め、自家の商品運搬のために海運業に乗り出す。北海道沿岸に定期航路を設け、日清・日露戦争で持ち船が政府用船になり勢力を拡大。樺太銀行頭取を務め、政財界に大きな力を振るった。ハワイ航路まで開いた功績は海運王の名にふさわしい。
さらに、富山県出身で一八八二年(明治十五)、小樽に店を開いた寿原弥平次は、毛利元就の「三本の矢」にならった身内の共同経営で財閥の基礎を築いた。
「小樽は城のない城下町である。この城下町には殿様が何人もいる」と書いたのは、「小樽商工会議所百年史」の著者の本多貢氏である。生き馬の目を抜くような激烈なグローバルビジネス最前線を突っ走った樽僑たちは、それぞれ紛れもない殿様であった。
小樽商工会議所会頭の山本秀明さんいわく「日本中に名を轟かせた名士たちの資金量は全国でも屈指のものでした。ウォール街と呼ばれたほどの金融街が形成され、日銀小樽支店が出来たことがそれを物語っています。」副会頭の杉江俊太郎さんは、一九二一年(大正十)に北海道中央バスの初代社長を務めた杉江仙次郎を曾祖父にもつ。「歴史の重みというのでしょうか小樽には百年を超える企業も結構あります。もともと北海道の経済の中心だった繁栄の名残があるからこそ、今に残る歴史的建造物も多いのです」と杉江さん。そして山本さんは豪商の気概をこう語る。「自分が築いた資産を地域に還元する意識が強かったですね。旧制小樽高等商業学校の誘致では建設費の半分を経済界が出しています。野口家はスキージャンプ台を、板谷家は長橋中学校を寄付しました。山田吉兵衛のみならず杉江さんのおじいさんも能島通りを造っています。現代はもはや調整型でいかざるえを得ませんが、そうしたマインドを今も抱いている人は多いですよ。」
~THE JR Hokkaido No.305 (JR北海道 車内誌)
特集「樽僑」と呼ばれた男たち
小樽豪商の夢に酔う より
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