朝里小学校

2015年02月18日

CIMG9101朝里再発見より

○教育の始まりは朝里の浜から

 朝里小学校の歩みは、1876年(明治9年)11月1日、朝里の海岸沿いに朝里教育所が開設されたのが始まりです。これ以前にも、松前藩士が1862年(文久2年)頃に、2~3年教えた事がありました。

 旧会津藩211戸700名の入植地が余市に決まる1871年(明治4年)以前、彼等は小樽郡と高島郡に寄留していました。朝里にいた旧会津藩士渡辺竹八(入植する年に開拓使に提出した血判書では渡辺竹八義信)は、寺子屋を開き四書五経を教えていました。しかし、学校という形では朝里教育所が最初なのです。

○札幌農学校と同じ年に開設

 渡辺竹八が去った後、漁場の親方である亀谷藤次郎が、朝里に教育所を設置すべく小樽郡長に願書を提出したのは1876年(明治9年)7月のこと。同年8月認可。現在のちどり公園の場所に平屋の校舎を村費で建て、同年11月1日に開校しました。この年の8月には札幌農学校が開校しているので、北海道大学と同じ歴史を歩んでいるわけです。

 公園敷地を見て分かる通り、現在では考えられないような狭い校地で、ここに校長公宅もあったのですから運動場などありません。当時、近くにあった稲荷社の前の広場で、整列させて体操をしたそうです。

 明治も中頃になると、定住する人も多くなり、通学する子供達も増えて狭隘になったため、1909年(明治42年)11月、朝里交差点西側角地へ移転、3学級になりました。ここでは野外運動場、今でいう、グランド敷地もあり、講堂として使用できるような設計になっていました。

○宅地化ブームで増改築が続く

 1952年(昭和27年)11月の校舎焼失によって現在地に移転したのは、翌年の11月のことです。なぜか11月に大きな節目があるようです。この頃から、朝里新光地区の宅地化ブームが始まり、児童数は急激に増加。校舎は1955年からほぼ2~3年毎に増改築工事を実施していて、現在の校舎になったのは1985年(昭和60年)1月です。その間、1983年には、最多の30学級1156名にもなりました。

 開所時は1学級20名程度だったのが、開校123年の1998年度は20学級656名です。今までに約8000名が巣立っていきました。

○「古き器に新しき教えを盛りし」小学校

 現在はアスレチック設備やコンピューターも設置されている反面、郷土資料コーナーもあり、「古き器に新しき教えを盛りし」という校歌を実践している小学校です。

 一つ一つのあたらしい出来事が古き器を少しずつ形作っていきます。開校120周年を記念して、ちどり公園の発祥の地に記念碑が建立されています。古き器を忘れず、朝里小学校卒業を胸を張って答えられる子供達が、これからも巣立っていく事でしょう。

 

CIMG9137朝里教育所があった場所(明治9年)

CIMG9130

 

CIMG9103明治42年移転、そして昭和28年現在地に移転

CIMG91022016年度(平成28年度)

CIMG9105開校140周年

CIMG9115朝里小学校と朝里神社

 

『会津藩士は1871年(明治4年)余市へ入植したのでした。』