先祖の漁業を守り続け (続)

2015年02月09日

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 悩みぬいた末に、反対されることは覚悟の上で私の考えを主人に打ち明けました。結果は案の定、『大反対』。「沖仕事と客商売の両方は出来るものではない」と毎日のように叱られたものです。でも、私は、家を新しくし、そこに食堂を構える気持ちは捨てきれませんでした。主人に内緒で生命保険から三十五万円を借り、それを元手資金として銀行の融資をお願いしました。銀行からは「必要な資金は貸しましょう。ただし土地を担保にいれて下さい。」と言われました。土地は舅名義のもので、舅の承諾がなければ勝手なこともできません。とうとう主人にも打ち明けました。主人も私の考えを理解し、応援を得ることができました。話し合いは難航しました。時には、親子の縁切りと言うような場面もありました。

 ある日のこと。舅から、

 「お前(私のこと)が責任をもって店をやるなら、土地を担保に入れてもよい。」

と許しが出たのです。さっそく百二十五万円の融資をしてもらいました。ところが大工の話では「用意したこのお金では、部屋に畳も障子も入らない」と言われました。その時は一瞬まごつきましたが「できるところまでやろう」と決心し、基礎石などは、家族の手をかり、海岸から船で運ぶなどして建築費の軽減を図りました。こうして、ついに我が家と小さい店の願いがかなえられたのです。

 相変わらず漁師仕事は朝早く、春漁になると、午前三時に起きて沖に出る日が続きます。獲れた魚は船で漁協市場まで運び、帰りは店の材料を仕入れてきます。海が荒れたり風が強い日などは、魚を箱に入れ背負い込みバスで運んだものです。自家用車を手に入れるまでこのような仕事が毎日続きました。

 このように漁業と客商売の両立という事は並大抵のことではなかったのです。しかし、女の子が多かったことも幸いし、店の手伝いの足しにもなり、忙しいときは大いに助けられたりもしました。主人は漁業で沖に出る、私は食堂で采配を振るう。という仕事の分担ができるようになりました。子ども達が成長し支えとなってくれたからです。

 「家に父さんが二人居るんだよ」と言い聞かせ、母として子どものそばにいて面倒をみてやれなかった悔いをそのような言葉に紛らわせてきました。

 食堂を始めてから四十年を迎えようとしております。この間、主人は平成二年に他界し、漁業は私が継承し、春の小定置、秋のサケ定置を、同居している長男夫婦等の力を借りながら、先祖からの漁業をどうにか守り続けております。

 私のこれまでの人生は、七転八起でした。苦しいとき、「今は八転び」と自分に言い聞かせて頑張ってきました。これからも、いつも笑顔で暮らしたいと思っております。

CIMG8790平成十一年三月三十一日発行

 

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