後志鰊街道より

2015年02月01日

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◇それでニシンが資源だったんだ◇

 ニシンは他の魚と違い、食べる以外に作物の肥料として利用されてきました。例えば、江戸時代半ばから、岡山の綿や麦、徳島の藍、愛媛のさつまいも、広島の藺草、和歌山のみかんなどの肥料として北前船で運ばれて利用されたのです。この場合、漁獲された場所で水分を搾(しぼ)る「粕(かす)」という加工をほどこして、俵に包まれて船に載せられました。

 もちろん食べるということでも、焼いたり煮たり、乾して保存できる身欠(みがき)にしたりしましたし、数の子や白子も貴重なおかずです。又肥料用に搾った時に出る油はローソクなどにも使われたのです。

 ただ何といっても肥料として多くの農家が必要としたので、引っ張りだこが高じて、米と同じくらいの価値になり、米と同じ「石高」で単位が示されるようになりました。

 米は江戸時代には「お金」の代わりをしましたから、それと同等ですので大変な価値です。

◇ニシン漁の時期◇

 ニシンは主に「春ニシン」といわれるように3月・4月に押し寄せてきました。沿岸に繁殖する「ホンダワラ」という藻を目掛けて大量に産卵しに回遊していきます。このときオスが出す白子によって海も白くなるほどの状態を「群来(くき)」といいます。

 およそ1月から多くのヤン衆がやって来て、雪下ろしをしたり、網や船の手入れをしたり、準備を始めていきます。そして漁獲時期が終わる5月には給金をもらって、それぞれの故郷へ帰っていきました。

◇ニシンの魅力◇

 ニシンは縄文時代から獲れていました。蝦夷地に暮らしていたアイヌの人々も「カムイチェップ(神の魚)」として自然の恵みに感謝していました。

 ニシン漁獲の現場を経験している人々が、以後ニシンの魅力にとりつかれたように、まるで神がかった気持ちを持つのは、ニシンが他の魚と違う価値を持ったことに加え、この群来を目の当たりにしたり、船に汲んでも汲んでもまだ獲れるという実感や、戦争のような忙しさの印象があまりにも強かったからだと多くの人々は言います。

◇後志沿岸のニシン◇

 ニシンは北へ北へ群れごとに回遊していく習性を持っています。ですから北海道の日本海側一帯で鰊は獲れましたが、それぞれの地域で最も獲れる大漁区域の線があるとすると、その線は時代が進むにつれてだんだん北へ移動していきました。もともと道南でニシン漁で働いていた人々が、それを追って北へいくことを「追鰊(おいにしん)」といいます。

 それでは私たちの住む後志沿岸では、どの時代に最もたくさん獲れたのでしょうか。

 仮に北海道地区を道南(江差・松前など)・道央(主に後志)・道北(留萌・増毛・利尻・礼文)に分割してみると、明治中期から大正時代にかけて最も獲れたのが、道央である後志沿岸地域でした。それ以前が道南で、それ以後は道北ということになります。例えば明治21年(1881年)には、建網というニシン用の網が全道で2700ヶ統を超えていましたが、後志が1452ヶ統と圧倒的に多かったことや、明治30年(1897年)には渡島、後志、石狩、天塩、北見、根室、釧路地方に出稼ぎにきていた漁夫合計109941名のうち後志国が最多33092名であったという記録などで明らかになっています。

 では後志で最も獲れた明治中期から大正時代とはどんな時代であったかというと、欧米に追い付き追い越すための「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」という政策を明治政府が推し進めている真っ最中で、ニシン漁業はそれ自体が産業でもあり、当時日本が海外に輸出できた数少ない商品である綿花の肥料としてニシンが盛んに利用された時代です。このことから「ニシンは食べるより着るもの」といった表現もされたのです。

 ですから、日本が最もニシンを必要としていた時代に、最もニシンが獲れた時期が後志のニシンだったといえるのです。

 日本の近代化を支えたのは後志のニシンだったといっても言い過ぎではないでしょう。

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