くちこ
2014年12月23日
このごろ、酒に適する、また、美食家の気に入る美味いものの第一品は くちこ の生であろう。この生くちこは、東京には売っていない。自分たちは加州金沢から取り寄せるのである。この風味はちょっと他に類がない。このわたに似て、水分の多い目方の重いものであるが、卸値百匁十五円から二十円ぐらいの最高価格の美食の一つである。
多くは能登に産する。表日本の方では四月ごろ見受けるが、裏日本のように美味しくない。けだし寒海鼠の胎卵である。これの乾燥したものは、東京に来ている。このこ という。これも卸値百匁十八円ぐらいだから、もとより美味い。しかし、生の美味さにはかなわない。生は桜色と朱鷺色との中間ぐらいの淡紅色で、この種のものの中で一番感じがよい。乾燥したものはいくぶん代赭色に近い。生の香りは、妙にフランスの美人を連想するような、一種肉感的なところがあって、温かい香りが鼻をつく。とにかく、下戸も上戸も、その美味さには必ず驚嘆する。そうして初めて口に上す者は、そのなんであるかを当てる者は少ない。
金沢を中心にして北陸では、一流どころの旗亭なら、たいていは突き出しに出してくれる。しかし、五匁ほどだ。これをお替わりすると、五円ぐらいはペロリ舌の上にすべってしまう。乾燥したくちこ、すなわち、このこは網の上に載せ、火に焙って、そのまま食ったり、椀種にしたりする。すましの椀をつくり、マッチの棒二本ぐらいに切ったものを十本ばかり入れて、なにか色どりに、このこの香りを邪魔しないツマを添えて膳に上す。主客椀の蓋を採るとき、たまらない香気を発する。価は価だけのことはあるーと思わせる。中国や西洋には、こんな調子の高い美食はないようだ。青々した畳にも合う。啓書記、因陀羅というような万金の掛物をかけた座敷にも合う。根来薄手の椀にも合えば、金蒔絵にも合う。
これは寒海鼠の胎児の話であるが、そのはらわたは このわた であって、これはたいがいの人がご承知のとおり、初見おか惚れという美人ではないが、トロトロと長く糸を引くやつを、一筋舌の上に乗せ、無上の味覚に陶酔し、顔面筋肉は、心の愉悦を表現して、やや弛緩する。そのころ、燗酒ひと口、ぐっと呑み干す。味覚、味覚…、その快味は真にいうべからざるものがある。しかも、その酒杯が古染ネジなどであり、このわたの容器が」朝鮮斑唐津などの珍器であったとしたら、まったくもってたまらない。人生の楽事亦多なる哉だ。(昭和六年)
魯山人著作集 第三巻 料理論集 五月書房発行より
そば会席 小笠原
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