美食多産期の腹構え

2015年02月05日

 心のおもむくままに、いつも美味いものを食って、心の底から楽しんでみたい。朝も昼も晩も。犬や猫のように宛てがい扶持の食事に、その日その日をつづけることは、肉体は生きられるとしても、心の楽しみにはならない。心に楽しむ料理なんて考えても縁遠い。食って生きて行きさえすれば、それで結構なんだ。安価で栄養価値のあるもの、それで充分じゃないか、今の世の中はと。エネルギーのない多くの人々はこれを常識として、栄養不良というやくざ人間をつくり出している。これが当世らしい。心に楽しむ余裕を持っていないのだろう。持っていても、きわめて消極的で、あさはかなものらしい。

 カロリー、ビタミンを一々気にする料理は、実をいうと栄養薬であることに気がつかない。だから美味くない、美味くない食事から充分に栄養を摂らんとするのは不合理に考えられるが、そこまで考えている者は稀なようである。

 そのことは日本人にいうに及ばず、外国人も同様らしい。アメリカの都市を観て歩いても、実に薬品店の多いのに驚かされる。ヨーロッパもその通り、よろめき歩く死一歩手前の老人の多いのに驚かされた。弾力のある青春時代の無鉄砲の酬いと見て間違いあるまい。栄養薬的食事も一応は隆々たる筋肉をつくってくれる時代があるようだが、弾力ある精神まではおぼつかないのではないか。ヨボヨボ老人の多数が公園に憩う風景を先進国に見る事実は、とくに考えて見る必要があろう。私のいう栄養薬的料理、それは小児あるいは自由を拘束されているような人間だけにして、その他は各自の自由にまかせて勝手気儘に心の底から楽しめる食事を摂れば、カロリーがなにほど、ビタミンがどうのと考えなくても、おのずから健康はつくられると私は信じている。

 しかし、美味いものを食い続けようとするには、もちろん知識も要る。経験も要る。努力もしなければ発見ができない。しかし、この努力はまことに楽しい努力であって、苦労にはならない。

 私は今なにを考えているかというと、(続く)