手宮洞窟。

2015年01月27日

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十四目 史蹟手宮洞窟

手宮洞窟の岩壁彫刻

 小樽市内の遺蹟中最も著名なものは手宮の洞窟の奥壁に存在した北面彫刻である。この洞窟は慶應年間石工長兵衛によつて、石材探索の際発見されザンジ漸次有名となり明治十一年には榎本武揚が同地を視察して、これを東京帝大に報告した。同年ジョン・ミルンがそのことを聞いて調査の為に來樽し、彫刻を模寫し、翌年亜細亜協會に發表した。

 その後多数の学者によつて視察せられ、彫刻を遺した民族に関してさまざまの學説が發表されてゐる。

 洞窟は長兵衛の發見した當時は入口が土に埋もれて居り奥壁に彫刻があつたのであるが、後石工が石材を採る爲に、奥壁の全面が一時露出して岩面となつた。

 ミルンの模寫圖は現在残されてゐる同彫刻に関する圖中で最も古いものであるが、彼が調査に赴いた當時に於ても盛んに附近から石材が出されて居り、彫刻の部分がかなり壊されつつあつたといふ。

 翌十三年に開拓使で模寫した圖は、現在北海道帝国大学附属博物館に所蔵されてゐるが、これはミルンのスケッチとは著しく異り、字數も遥かに多く、且字の形も變つてゐる。このことは、ミルンの模寫が行はれてから翌年開拓使の調査がなされるまでの間に彫刻が變つたことを意味するが、それは恐らく何人かの悪戯によつて手を加へられた爲と思はれる。その後も岩面の崩壊やら、後人の悪戯等によつて彫刻はさらに變形した。明治三十九年には彫刻部をはつきり見せる爲に朱入が行はれたが、その爲に却つて古くから存在する部分と、新しく加へられた戯作との區別が出なくなつてしまつた。今日現存するものは朱入當時よりも一層状態が悪くなつてゐる。

 彫刻が字である畫であるか、或いは何を意味するものであるかに就いては、從來學者によつて諸説區々であるが、その主なるものは次の如くである。(括弧内は發表者)

Ⅰ 墓標若しくは戦死者の記念畫とする説(渡瀬正三郎、坪井正五郎、渡邊義顯)

Ⅱ 突厥古代文字節(鳥居龍蔵)

Ⅲ ツングース語(或は靺鞨語)を古代土耳其文字で書いたものとなす説(中目 學)

Ⅳ アイヌの家紋説(平光吾一)

Ⅴ 偽作説(關場不二彦)

 その多數あるが、何れも想像説の範圍を出ない。

 洞窟附近からは明治の初期に多數の石器、土器、人骨、その他の遺物が發見され、その一部は現在北海道帝大附属博物館に保存されてゐる。而して手宮、出土の遺物は石器時代の古いものから金属時代の新しい年代のものまで、長年月に亘るものであって、果してそれ等土器の内どの形式のものが彫刻と關係を有するのか、或は全く無關係なのか憶斷し難い。

 因みに、手宮岩壁彫刻は現在天然記念物として保護を加へられてゐる。

 

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史蹟手宮洞窟古代文字

昭和25年6月15日 小樽市教育課発行より