小樽病院~ルーツたどれば「安政」

2014年12月04日

 

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 市立小樽病院は、後志圏で最大の総合病院である。

 第二病院と合わせたベッド数は九百。規模といい、最新の設備といい、道内でもトップクラスの医療機関といえるだろう。

 時はさかのぼって、安政三年(一八五六)、小樽に一人の医者がやって来た。幕府の雇い医佐藤玄悦。小樽に最初に常駐した医師で、箱館奉行から派遣され、オタルナイの山ノ上(現 住吉町付近)の病院に着任する。

 この病院が小樽の官立病院の第一号で、当時は官民共に診療費は無料だった。

 街が繁栄するにつれて、診療費も生活困窮者以外は有料となり、病院の施設も拡大される。この間、開業医たちも相次いでやってきた。

 ところが、いつの時代にも、いかがわしい医者が登場するらしい。明治五年には、悪徳医師を排除するための「病院規定」が設けられ、薬剤を押し売り同様にするのを厳禁したとある。

 一方では、民間の助産婦“取り上げばば”の横行にも相当手を焼いた。多くは経験者の老女だが、こちらは知識も技術も低いうえ、非衛生的で、しかも家族減らしの“間引き”堕胎が半ば公然と行われていたため、これも明治十四、年試験による免許制度になっている。

 ところで、当時最も恐れられていた病気は、伝染性が強く死亡率の高いコレラだった。

 中でも明治十年から二十年ごろにかけては、コレラの流行が相次いで、小樽の人たちは、そのたびに恐怖のどん底に突き落とされた。

 明治十二年五十七人の死者を出した時の記録には、次のように記されている。

 七月二十日、忍路に入港していた石川県の和商船・八幡丸=千二百石(約百八十㌧)積み=で水夫が病死した。遺体を葬るため寺に運んだが、医師の診断がなくては火葬もできないので医師の検診を受けたところ、コレラとわかり大騒ぎとなった・・・・。

 これが発端で数日にして数人が感染、直ちに全市防疫体制が敷かれた。患者の隔離や消毒はもちろん、流行地からの船舶の入港禁止、未熟な果実や腐敗しかけた魚肉類の販売禁止などの緊急対策も組まれた。が、時すでに遅し。コレラは市内に侵入し、四か月後の十一月、ようやく終息したとある。

 この間、小樽の町並みは戸が固く閉ざされて、道行く人の姿もほとんどなく、遺体の臭気に誘われるように野犬が街をうろつきまわっていたそうだ。

 これらの恐怖は、隆盛を極めた街をも、一瞬、死の街に変えた。

~おたる今昔 昭和55年9月17日~10月21日連載 読売新聞社編より

 

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