旗亭 海陽亭 その一
2014年09月15日
小樽に過ぎた名物が一つある。その名を海陽亭という。
如何に小樽衰えたりとはいっても過ぎたはひどいといわれるかもしれない。然し過ぎものではある。
いたやともみぢの亨々とした大木の石段を上る。古びた山門でもあれば殊に似つかわしい風情なのが海陽亭の玄関である。蒼然としたものである。
話は古い。明治三十九年十一月十三日。日露戦争勝利の結果日本が割譲受けることになった樺太北緯五十度線の国境劃定が手宮日本郵船小樽支店楼上の会議室で議定された。
その夜官民合同の祝宴が魁陽亭二階大広間で開かれた。この料亭は始め魁陽と書き、次に開陽と称し、三転して現在の海陽亭になっているが、二階大広間は当時その儘今に残されている。
惜しいことに古びた一葉の写真を残しているだけで現女将宮松幸代女も盛宴に就いて全く知らない。然し戦勝国日本の、中でも新興を気負った小樽の有志達が、如何に胸を張り眉をあげて銀燭の下で美酒を掬みなしたかは想像に余る。
こうした由緒を誇る料亭であるということで、斜陽小樽には過ぎた名物であるというのでは更々にない。
明治の元勲伊藤博文公がハルピン駅頭で朝鮮人安重根の一発の狙撃弾であえなくも倒れたのは明治四十二年の十月。
その三月前の八月。伊藤公は小樽を訪ねておられる。朝鮮総督時代の縁故であろうか韓国皇太子李王殿下の東北北海道視察の御案内に立れて来道。一夜を海陽亭で過ごされている。
何分にも新柳二橋の阿嬌をなで切りにして牡丹公の艶名、遂には叡聞に達せりと新聞が書立た程の好色家の伊藤公もその時六十九才。
今に残る白綸子の布団にひっそりと独り寝したものか、海陽亭の歌妓なにがしかを添寝さしたものかはつまびらかではない。
その時の揮毫は海陽亭自慢第一の宝物としているが、それは過ぎた栄光の一頁を飾るものである。然しこうした古めかしいものなどが過ぎたというのではない。
一昨年かことである。青年会議所で何かの話を聞くため、元日銀副総裁の柳田誠二郎氏を招いたことがある。伝手はあってお願はしたものの、諾否を懸念しながら申出たのにも意外に早速O・Kが来た。
来られてからの話で海陽亭を楽しみにして来たといわれたのに新進気鋭の若手連中びっくりして目を廻した。何分にも元おえら方とあって日銀小樽支店から千歳空港までお出迎が立った程の人の言葉とあって、海陽亭ってえらいんだなあと吐息したという。
知名人の間に海陽亭の名が如何に知れ渡っているかの挿話であろう。
タイムマシン小樽 田辺 順
月刊おたる 昭和48年3月号~48年12月号連載より
THE JR Hokkaido №305
そば会席 小笠原
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