早くから衰退を予想

2015年03月14日

 次の文章は当時農商務省水産講習所の技師河合角也という人が、明治四十三年(一九一〇年)十月四日、六日の二回にわたり 道鰊漁業の前途 と題して小樽新聞に掲載されたもので、私の友人で新聞社のk氏が、私が鰊のことを研究していることを知り、たまたまこの新聞の文章を発見して送ってくれたものである。

 明治四十三年というと、いまから七十年以前であるが、当時のこの文章を読んで、私は河合技師の先見の妙に感心した次第である。

 明治三十年(一八九七年)に百三十万石(約九十八万㌧)と史上最高の漁獲高のあった約十年後において、鰊の将来を見抜いたのであった。

 はたせるかな昭和二十九年を最後として北海道西海岸から回遊性の春鰊は完全に姿を消してしまった。

この文章でもうひとつ感じることは、現在の我が国の二百浬問題のことである。

 今日の日本は世界の国々からの漁業専管水域宣言で、遠洋、沖合漁業が厳しい規制を強いられている状態である。改めて育てる沿岸漁業が見直されてきているとき、何か教えられるものがあると思われる。

 漁業者は自分の視野を広げ、将来を考えて大きな展望のもとに努力して研鑽を積んで進むべきでなかろうか。

 

 鰊漁業の前途

 本邦に於て水産物の最も饒多なるところと言えば先づ第一に北海道を数える。然るにその漁獲量が年々減少していくような傾向にあるのは、国家としても又北海道漁民としても大いに憂慮すべきことである。殊に十年前に於ける北海道の鰊収穫は、平均九十万石乃至百万石くらう、先づ百万石の漁があれば充分やっていったのである。

 ところがこの四、五年と言うものは、非常に減じて、たいがい五十万石以上から七十万石以下に止まっているようである。又十年前の鰊の〆粕は百石の値段が千二、三百圓から千四、五百圓くらいしておったのが、四、五年前には二千圓位となった。ところがその二千圓と言う値が実に法外な浮気な相場であって到底永く持続するものではないけれど、兎に角一時北海道の漁業者を喜ばしめたのである。

 そこで本来の相場はどうであるかと言うと千四、五百圓くらいで、それに未だ小樽辺の銀行が荷為替を付けるのが少ないようである。これは多少金融の都合にあろうけれど兎に角三、四年前までは二千圓もしたものが急に千四、五百圓になったのであるから、鰊漁業者にとっては大打撃である。それから一方漁業の費用を見ると、十年前の米価、あるいは雇人の給料、其の他の諸給与類というものがほとんど三割も上がっているけれど、その割合に肥料の値が上らぬからして北海道漁業者の苦痛を感ずることは一通りではない。

 しかし昨今では大分漁具の改良というて、やかましく唱導され、着々その実が挙ると同時に粗大一方で零碎の費をかえりみず、すこぶる贅沢なやり方をしていた建網なども周約的にせねばいかぬという気風が見えてきたのは、遅れながらも北海道の漁業のためには実に喜ぶべき現象である。

 もっとも十年前までの鰊漁業者の気風は、北海道に於ける鰊漁は、ほとんど萬世不朽の品位に思っておった時代で、それがようやく周約的の方針にかたむいてきたのであるが、既に目の覚め方が遅いのである。どうしても全盛時代に将来の方針を定めるのが總ての事業にとって大切である。

 然しこれは人間の弱点でなかなかそうは出来ないものとみえ、北海道の漁業者も近頃になって、ようやくこの念慮が生ずるようになったのは是非もない次第である。又肥料の價もこれからはあまり騰貴はなかろうと思う。それはなぜかというに、支那から入る豆粕というものはあの通りであるし、カナダ方面から入ってくるところの鰊肥料、それからアメリカから入ってくるところのテンソというように各種の肥料が、益々多くなってきたので、ために日本鰊というものの、価格は昇る見込みがない。であるから北海道の漁業者は、いまにおいて大いに考えなければならぬ。

 しかし今日では燻製にしたり、あるいは塩鰊にしてヨーロッパへ売ろうということや、又支那へ売ろうということをしきりにやりつつあるが、遺憾ながら到底日本産のような痩せきった鰊は、歐洲諸国へ輸出するということはほとんど絶望である。

 唯わずかに支那に売ろうというたところが、両三年来アラスカから神戸を経て、満洲から北清に入って来るところの塩鰊というものは、実に莫大なもので、日本の塩鰊は将来の販路というものは、アラスカ、カナダ辺の塩鰊のために全然圧倒されはしないかと心ひそかに憂うるのである。

 然らば北海道の漁業の将来はどうなるのかということである。

 

DVC00003.JPGより