実態調査(1992年)から その8~なにもない港内測量図
2014年11月18日
第3章:小樽の都市形成と木骨石造建築
3-1:小樽市街の発達小樽は、平地がきわめて少ない。幾筋もの丘陵が石狩湾へ向って突出し、先端は崖となり多くは海岸から切り立っている。江戸期から日本海沿岸第一の良港とされた小樽中心街の原地形である。
このマチは、丘陵の谷間を流れる何本かの川の河口に成立した小さな漁家集落を結びつけあい、斜面をはい上がる形で発展する。
原地形を大きく変えながら市街地を拡大していく。今日の小樽のマチの姿は、幕末期に始まり、いまなお営々と続けている都市改造と構築の所産である。道内はもちろん、全国的にみても例の少ない、きわめて不利な地理条件を克服しての都市建設である。この点をまず指摘しなければならない。
幕藩期、現在の小樽市域は、ヲタルナイ場所、シクヅシ(タカシマ)場所、およびオショロ場所と区分され、それぞれ独立していた。各場所の間には陸路はなく、海上をまわって往来したと伝える。ヲタルナイ場所とシクヅシ場所の境界は於古発川。シクヅシ場所とオショロ場所とのそれは高島岬。シクヅシ場所と隣のヨイチ場所とは畚部(フゴッペ)岬、オタルナイ場所と札幌寄りのイシカリ場所はヲタルナイ川となっていた
集落形成は、ヲタルナイ場所の勝内川河口周辺が最も早く、慶応元年(1865) 、「村並」となった。維新直後、旧各場所の区域は小樽郡」、高島郡および忍路郡と区画される。明治3年(1870)4月小樽郡は信香町、勝納超ほか6町を設け、銭函村ほか2村に区画した。また高島郡下は』色内村および手宮村の2村、忍路郡下は塩谷村ほか3村に区画した。翌4年、小樽郡下に堺町、港町、有幌町、若竹町、などの各町を追加し、同5年入舟町、若松町、潮見台町などの各町を設ける。こうして勝納川周辺の市街形成が進み、市街区域は手宮川の方へ向って、北に進んでいく。
明治13年(1880)、手宮を始発点とする幌内鉄道が開通する。同22年、小樽港は特別輸出港に指定され、同32年(1899)、開場港に指定され、国内重要港としての位置が確立する。小樽市街は急速に発展する。
明治32年、小樽郡と高島郡の一部との38町村を統合し、小樽区が誕生する。人口66,893人、8,909世帯、道内第2位の都市である。大正11年(1923)8月1日、函館、札幌とともに市制施行。昭和15年(1940)、高島町、朝里村を合併する。さらに同33年(1958)、塩谷村を合併し現市街となる。この合併時点の人口は204,377人、世帯数は44,111であった。
蝦夷地への和人の進出を阻んだ積丹半島神威岬
村並前の小樽内の景(『小樽市史』より)
小樽市最古(江戸末期か明治初期)の市街見取り複製図
防波堤や港湾施設など、なにも記入されていない軍艦「春日」による港内測量図(明治4年・1871)
~写真集 小樽築港100年のあゆみ 北海道開発局小樽開発建設部 小樽港湾建設事務所 発行 より~
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