土木は面白い Ⅴol1 続き
2014年11月01日
小樽港北防波堤と広井勇博士
広井勇博士という人を知っていますか?
そして北海道の小樽市という街を知っていますか?
時代背景
…その頃の小樽は「北のウォール街」とよばれて世界中の経済に影響を与えるほどの勢いを持っていました。
広井勇博士と小樽
広井勇博士は土佐(現在の高知県)の出身で、1877年(明治10年)に開校2年目の札幌農学校(現北海道大学)に2期生として入学しました。当時16歳です。
その頃の日本というと西南戦争が起こった頃です。札幌農学校の同期には、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など、後に偉人として伝えられている人達が並んでいます。。クラーク博士は明治10年に帰国していますので、広井勇博士達は直接クラーク博士とは会うことはなかったと思われますが、クラーク博士の作った雰囲気が強く残っていた時期でしょうし、その影響は大きかったことでしょう。
広井勇博士は、札幌農学校を卒業した後、開拓使、次いで工部省(こうぶしょう)へと移ります。その後米国とドイツに留学し、6年間を海外で過ごし、本格的な産業開発の時代に入っていた米国でいくつもの河川や橋梁の工事にかかわりました。
後に橋梁の行動計算に関する英文著書も出版していますが、これは当時世界最高の橋梁(きょうりょう)技術専門書と称賛され、多くの米国人技術者がバイブルとしていました。博士は当時27歳でした。
明治22年(1889年)帰国した広井勇博士は、札幌農学校土木工学科教授に就任して教育者として人生をスタートしますが、産業開発が進む北海道は広井勇博士の土木技術を必要としていました。その時、北海道庁で重大課題となっていたのが小樽港の建設工事です。
広井勇博士は、明治26年(1893年)、札幌農学校の教授のまま北海道庁の技師および小樽築港事務所長を兼任し、小樽港の築港(北防波堤第一期工事、1897~1908)に心血を注ぐことになります。
広井勇博士がまず取り組んだのはコンクリートの開発でした。コンクリートは当時国産が始まったばかりで、それまで横浜港や佐世保港などで採用されたものは亀裂事故が絶えませんでした。そればかりか海外の一部の防波堤では崩壊したものもあるほどでした。外海の荒波に耐えるコンクリートブロックを製作するために広井勇博士が考えついたのは、セメントに北海道で豊富に手に入る火山灰を混入して強度を増す方法でした。
これによってそれまでの2倍、24トンのブロックの製造が可能になりました。次いで広井勇博士はこのブロックを71度34分に傾斜させ、そのまま並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用します。外洋の波の力を独自に計算して工法を編み出す、広井勇博士の独創性と技術の真価が発揮された築港でした。こうして明治41年(1908年)に幅7.3m、水深14.4m、全長1289mの北防波堤が完成します。
これは日本初のコンクリート製長大防波堤であり、100年の荒波に耐えて今も当時のまま使われています。
2000年には土木学会から「日本土木史の驚異」と称賛されて、「土木学会選奨土木遺産」として選ばれました。
~北海道工業大学(現 北海道科学大学)ホームページより~
続く
工事中の北防波堤と小樽港
海へ
階段も
防波堤築造に使用されたブロック
港湾工事に偉大なる足跡
《広井公式》
波力の算定に関する公式(広井公式)
p=1.5woH
Pは波圧強度(t/㎡)
woは海水の単位体積重量(1.03t/㎡)
Hは来襲波の波高(m)である
この広井公式の特徴は、波力を波高に直接結びついた形で提示したものである。
全国の防波堤設計に昭和50年代まで使用されていた。
~写真集小樽港100年のあゆみ より~
広井勇博士が入学したのはクラーク博士がアメリカに帰られた後でしたが、その精神は一期生の人達にうけつがれ、博士にも感化をおよぼしました。明治十一年、博士は二期生の内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲三とともに、洗礼を受け、これが全生涯を通しての信仰となりました。
土木工学を学ぶ博士にとって教授の中に土木工師のホイラー先生のいたことは幸いでした。
先生は豊平橋の設計、また札幌の気象観測の創設、道路、鉄道の測量など、深い学識を持ち、北海道の発展につくしましたが、広井博士はホイラー先生から親しく教えを受け、尊敬と感謝の思いで学問を続けました。
明治十四年(二十歳)、農学校を卒業し、幌内鉄道の橋の一つを建設することになった。この幌内鉄道は北海道における最初の鉄道で、明治十三年に起工され、さまざまな困難にであったが、明治十五年小樽の手宮と幌内炭鉱の間に開通することができました。
これは北海道開拓使の上で大変重要な鉄道でした。博士が学びの門を出て初めて手がける仕事でした。博士はこれに全力を注ぎました。理論では充分の自信はありましたが、実際に橋をかけることには不安がありました。さらに工事の責任を思うと、なかなか夜もねつかれませんでした。
「自分が作った橋は実際の重さにたえることができるであろうか。」
博士の苦しみは技術者であればだれでも抱く悩みでした。いよいよ列車の試運転が行われる時、博士の顔色は青ざめ、ひざのふるえをとめることができませんでした。もし万一の事があれば、責任をどうとるかを思ったからでした。
しかし、列車は博士の成功を祝うように、前途への自信を抱かせるように、ゆうゆうと走り去っていきました。この幌内鉄道の主任技術者は、松本荘一郎、平井晴次郎、ジョセフ・クロフォードの三氏だったが、博士のまじめでひたむきな姿と勤勉さに感心し、中でも、松本氏は博士の技術と堅実な精神を大いに認め、はげましてくれました。のちには、博士を工部省にばってきし、また、博士がアメリカへ渡る時も、ミシシッピー河改修工事の仕事につけるように力を尽くしてくれたのです。、、、。
~文章は 広井勇 伝 鈴木章実代 編より~
野幌陸橋(長さ300尺、ハウストラス型 明治14年12月竣工)を走る弁慶号
~写真集 小樽築港100年の歩み~
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