第一歩

2014年08月11日

明治新政府は、石狩、空知、上川と順に屯田兵を入植させました。彼らは家族を伴い原生林が生い茂る原野で開墾と軍事教練に従事したのでした。その彼らが入植にあたり上陸したのが小樽の港でした。小樽港は、まだ近代的な港となっておらず、冬から春の北よりの季節風が吹くと荒波によって船が岸辺に乗り上げたり、艀が通船できなくなり、荷卸しもままならない時代でした。そのような時代、遠くは四国や九州からやってきた多くの人たちが、狭い船から降りて北海道の大地を踏みしめ、北海道を実感したのは小樽の港だったのです。

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明治24年(1891年)、永山の屯田兵として高知県から移住してきた野波駒次郎は、「二十五日 午前十二時に小樽港に着く。小樽のにぎわいに驚く。二千人の乗客のため航行中は混雑がひどく・・・。蒸気船六、七腹が錨を下ろし、近くの石炭取扱場は実に広大である。汽車、そのほか馬車の往復も実に多い。色内町八十屋(やそや)に止宿する(金巻鎮男『上川屯田物語』)」と、小樽の印象を移住記録に記しています。(おたる案内人テキストブックより)

 

 

 

CIMG4627台風が通過中、今日の日本海

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CIMG4636開拓民が来た当時は、まだ防波堤は、なし

 

 

CIMG4642北防波堤

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CIMG4632の後の青空~入植者の心をほっとさせたことでしょう

CIMG4635かたつむりも~しかしその頃、まだ原野の北海道には熊やオオカミ(1889年に確認された一頭が最後)も

 

 

明治24年(1891年)頃の小樽は、

〇明治13年(1880年)に、幌内鉄道 手宮ー札幌間が開通して11年後。

~鉄道の最大の目的は幌内(現在の三笠市)で採掘した石炭を運搬することでしたが、人や飲料日用品などの物資も輸送したことから流通が活発になり、にわかに商都のにぎわいを呈しました。

 

〇明治20年(1887年)頃から大きな木骨石造の倉庫が立ち並び、色内通りには今日の中心市街地の基盤になる商店や旅館などがたてられました。(船の荷物の揚げ降ろしは、現在の浅草橋付近にあった波止場が中心でした。)

 

〇明治22年(1889年)、石炭積み出し港として発展した小樽港が「特別輸出港」に指定されました。特別輸出港とは、「米、麦、麦粉、石炭、硫黄」の五品に限り輸出できる港です。

 

 〇明治23年(1890年)「北の誉」創業者 野口吉次郎が手宮裡町に醤油販売店 丸ヨ野口商店を開設した年。

 

 

 

時の政府は、北海道の開拓と同時に工業を発展させ、急速な近代化を図っていたことがわかります。