訪れてはいないけれど…
2025年04月22日
石垣市の宝 尖閣諸島
尖閣諸島とは
尖閣諸島は東シナ海に点在する無人の島嶼群で、魚釣島、南小島、北小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから成る島々の総称です。尖閣諸島の行政区域は沖縄県石垣市で、最も大きな魚釣島は石垣島の北西約170㎞に位置します。八重山地方では昔から「イーグン・クバジマ」と呼ばれ、周辺海域は良好な漁場として漁師たちに知られてきた他、明治時代から昭和初期にかけては羽毛採取や鰹節の製造などの事業が営まれ、多くの人が生活していました。
尖閣諸島の名称は、沖縄県師範学校博物農業教師の黒岩恒(ひさし)氏によって命名されました。これは、北小島や南小島などの島の形が尖っていることが由来となっています。明治33年、黒岩恒氏は魚釣島などに上陸し、火山性の島で岩盤がむき出しになっていると地質図を書き残しています。
発行:石垣市
2022年7月 第3版発行
石垣市 企画政策課 2022年3月発行
「尖閣諸島」はどこにある?
尖閣諸島は、日本の西のはしのほう、八重山諸島の北の海にあります。この島々の字名は、石垣市の「登野城尖閣」。そう、ここは石垣市内なのです。さあ、まずは目指す島々の位置を確認しましょう。
尖閣諸島で一番大きな魚釣島。山があり、真水が流れるこの島には、かつて人々が暮らした村がありました。島をおおう豊かな森林や草原には、世界でこの島にしかない動植物も生息しています。さあいったいどのような島なのか、探検してみましょう。
尖閣諸島周辺の海域は、絶好の漁場。海底の地形と海流にその秘密があります。
カジキ突き船 撮影:1952年
今は無人島ですが、魚釣島にはかつて、200人以上の人々が暮らす村がありました。島の北西には、かつての住民が作った船着き場があります。
尖閣諸島はその昔、どの国にも属さない無人島でした。明治時代になり島々、日本が正式に領土とし、島々が開たくされました。いま、再び無人島になっていますが、日本の領土であることに変わりはありません。島々の歴史をひもといてみましょう。
正式に日本の領土になるまで
海の道しるべだった島々~那覇と中国・福州の港を結ぶ航路を記した古い琉球の巻物に、尖閣諸島の島々の姿がえがかれています。福州はその昔、中国の都があった大きな港町で、琉球王国との交易において重要なきょ点でした。尖閣諸島は、福州と那覇のちょうど中間あたりにあります。風と人の力だけで船をあやつっていた時代、大海原にうかぶ個性的な形の島々は、目印としてぴったりだったことでしょう。
沖縄県になった尖閣諸島~今から150年くらい前になると航海技術が発達し、日本の周辺に多くの外国船がやってくるようになりました。また、八重山から尖閣諸島周辺へ漁に出る人たちが増え、管理する必要性が高まってきました。そこで、改めて現地調査がおこなわれた結果、尖閣諸島は中国(当時は「清」という国でした)もふくめ、どの国にも属していないことがわかりました。政府は、尖閣諸島を正式に沖縄県の一部と定め、日本の領土としました。1895(明治28)年のことでした。
尖閣諸島の開たく
アホウドリの羽毛を求めて~次の年、福岡県出身の商人、古賀辰四郎さんに、魚釣島、久場島、北小島、南小島の4島の開たくを許可しました。辰四郎さんは久場島でアホウドリの羽毛を採取する事業を始めました。羽毛はとても高く売れ、横浜や神戸の貿易商たちによって海外へ輸出されていきました。
魚釣島での村づくり~順調に見えた開たくでしたが、アホウドリは乱かくによってあっというまに激減してしまいました。辰四郎さんは専門家を招いて調査を行い、アホウドリのほかくを制限するとともに、村のきょ点を久場島から飲み水を確保しやすい魚釣島へ移すことにしました。畑を造成して、船着き場を作りました。強い風から家々を守る石垣も作りました。次に辰四郎さんが作ったのは、カツオ節工場でした。当時、八重山でもカツオ漁やカツオ節の製造が盛んにおこなわれていましたが、尖閣諸島の周囲は絶好の漁場でした。尖閣産のカツオ節は好評で、飛ぶように売れました。1902(明治35)年、沖縄県は、魚釣島、久場島、北小島、南小島の4島を八重山郡大浜間切登野城村の一部としました。1920(大正9)年には、大正島も登野城の一部となりました。
さまざまな事業でにぎわう島々~一方、南小島、北小島にはセグロアジサシなどの海鳥がたくさん生息していました。そこで古賀辰四郎さんは、南小島でうみどりのはく製づくりも始めました。こうして辰四郎さんが開たくした村は、248人、99戸もの人々が住むようになりましたが、大正時代(1912年~)に入ると急速にすいたいしていきました。鳥や魚がいなくなってしまったから、利益が出なくなったから、台風で大きなひ害を受けたからなど、さまざまな推測がありますが、はっきりした理由はわかっていません。
中国からの感謝状~1919(大正8)年、中国(当時は中華民国)福建省の漁師の一家31人がそうなんしました。命かながら魚釣島にたどり着いた彼らを、島の人々はただちに救助し、石垣島へ連れて行って手厚く看護しました。そのお礼として、翌年、石垣市長(当時は石垣村長)に感謝状が贈られました。その中に、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれていることから、当時の中国が尖閣列島を日本の領土だと考えていたことがわかります。
尖閣諸島と戦争
戦火を逃れて台湾へ~1937~1945(昭和12~20)年、日本は中国やアメリカなどの国々と戦争をしていました。(日中戦争、太平洋戦争)。戦争がはげしくなってくると、都市や町に住む人々、特に子どもと女性は、いなかへそ開(戦争のひ害からひなんすること)するようになりました。石垣島からのそ開先のひとつが、当時日本が支配していた台湾でした。1945年6月末、約180名が乗った友福丸と一心丸という2そうのそ開船が、石垣港を出て台湾へ向かいました。
多くの人がぎせいに~船は尖閣諸島のあたりまで遠回りするコースを進みましたが、と中アメリカ軍の飛行機に見つかってしまい、ばくげきを受けて1そうは海にしずんでしまいました。もう1そうも大きなひ害を受けましたが、なんとか魚釣島へたどり着きました。しかし、このときすでに無人島になっていた島には100名以上の人が生きていける食料はありません。やがて死者も出てきました。そこでなんぱ船を材料にして小さな舟(サバニ)を作り、数人が石垣島まで助けを求めに行くことになりました。あら波にもまれながら、やっとのことで石垣島にたどり着いたのは、終戦の前の日でした。台湾へ向かった約180人のうち何人が亡くなったのか、今でも正確にはわかっていません。(尖閣列島戦時そうなん事件)
尖閣諸島もアメリカのせん領下に~戦争が終わり、尖閣諸島をふくむ沖縄県は、アメリカがせん領を続けることになりました。沖縄県内には数多くの基地や演習場が作られ、銭かkぅ諸島の久場島も、ばくげき演習場となりました。そして、1972年、沖縄県は尖閣諸島とともに日本に復帰しました。県内の他の基地と同様に、久場島と大正島も、引き続き演習場としてアメリカ軍が使うことになりました。
ふたたび日本の領土となって
平和で豊かな海、再び~戦後、尖閣諸島周辺では、再び漁がおこなわれたり、学術調査がおこなわれたりするようになりました。1960年代後半になると、台湾からの漁船が尖閣諸島へやってくるようになったため、琉球政府はアメリカとそうだんして、石垣市の一部であることを示す標柱や領海侵入に対して警告する看板などを建てて、取りしまりを行うことにしました。
とつじょとして領有権を主張~そんななか、東シナ海で石油が取れるかもしれないという国連の調査結果が発表され、尖閣諸島は注目を集めるようになりました。そして、この後から、中国と台湾が尖閣諸島は自分たちの領土だと主張するようになったのです。
きん張が高まる尖閣諸島周辺の海~2008年(平成20)年に初めて中国公船(中国政府の船)が領海に侵入しました。2010(平成22)年には、領海内で漁をおこなっていた中国漁船が、退去を求めた海上保安庁のじゅん視船に体当たりするという事件も発生しました。近年では、中国公船が毎日のように尖閣諸島の周辺へやってきて、時おり、領海にまで侵入しています。
『訪れてはいないけど、知っておかなければならないことだと思います。』

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