世界文化遺産暫定一覧表記載候補資産
2024年11月28日
9月15日 二度目の休日です
鮭の定置網の準備
昆布 ゲットだぜ
さあ~どこへ行く
しべつ〝海の公園〟オートキャンプ場
ここにも
良さげな
昆布や貝が…
次の向かったのが
サーモン科学館
世界の鮭の仲間がいる水族館と鮭の全てがわかります。鮭に特化した水族館として日本最大級を誇り、常時、鮭の展示が行われているほか、わかりやすい解説や体験プログラム等のメニューも豊富です。
『てっぺんにあるイクラもごらんください。』
めあては
根室海峡にも いるんだ
昼過ぎ
たった一人で
目指すは
湿原の先
に
ある
標津遺跡群
竪穴住居跡
数百年の歳月を重ねたミズナラの巨木
湧き水のある場所も目指しました
クマ鈴をつけながら 途中にあるクマよけ用の大きな鈴を思いっきり鳴らしながら
帰ってきました
ポー川湿原の植生~天然記念物の標津湿原では、希少な多種多様な高山植物が観測できます。
『あ~怖かった。』
標津遺跡群の中心部は、氷期に知床連山から運ばれた土砂でできた扇状地形の端に分布しています。知床山麓から伏流した水が、扇状地形の端で集中して湧きだし、サケ、マスの良い産卵場をつくり、昔から人々の漁場や生活の場となってきました。
世界文化遺産へ~平成19年に標津町・北見市・北海道が共同して標津町の標津遺跡群と北見市の常呂遺跡群を、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」の名称で世界文化遺産暫定一覧表に記載する提案を文化庁に提出しました。審査の結果、暫定一覧表記載には至りませんでしたが、暫定一覧表記載候補の文化遺産として位置づけられました。また、令和2年には日本遺産「鮭の聖地」の物語~根室海峡一万年の道程~のストーリーを証明する、重要な文化財の一つにも認定されました。今後はさらに資産価値を高め、再び世界遺産登録に向け挑戦していくこととなります。
標津遺跡群とは~標津遺跡群は、主に伊茶仁川、ポー川流域を中心に分布する遺跡群の総称です。一万年前の縄文時代早期から約700年前の擦文時代に至る竪穴住居跡や、約500年前のアイヌ文化のチャシ跡などが残されています。その最大の特徴は、竪穴住居跡やチャシ跡が、現在の地表面から窪みとして観察できることにあります。竪穴住居跡窪みの総数は、約4400か所に達し、日本最大規模を誇っています。これら遺跡群の内、伊茶仁カリカリウス遺跡、古道遺跡、三本木遺跡の3つが、国の史跡として指定されています。
竪穴住居~竪穴住居は、新石器時代を代表する住居形式で、地面を掘り窪めて上に屋根をかけた半地下式の構造をしています。世界各地にみられますが、日本列島を含むアムール川中、下流域、ロシア沿海州、中国東北地方、朝鮮半島などの東北アジア極東地域では、旧石器時代終末頃から20世紀初頭までの一万数千年に及ぶ長期間、気密性と断熱性に優れた住まいとして選択されてきました。
鮭をたよりに一万年続いた暮らし~標津遺跡群では、縄文時代早期からアイヌ文化期に至る、長期にわたった生活痕跡がみつかっています。河川に沿った1~2㎞の範囲に、一万年にわたり、竪穴住居が繰り返し建てられ続けた結果、大規模竪穴住居群が形成されました。遺跡を発掘調査すると、あらゆる時代の竪穴住居跡から多量のサケ科魚類の骨が見つかります。ここでの長期の暮らしが、サケの利用に重点を置いたものであったことが読み取れるのです。しかし、サケだけでは一年を通した暮らしは支えきれません。遺跡を残した人々は、普段は根室海峡沿岸各所の様々な場所で、その土地の資源を手に入れて暮らし、秋サケ漁の時期になると、沿岸一帯から標津遺跡群に集まり、皆でサケを獲って共同生活していたと考えられています。
サケの産卵に適した環境~標津遺跡群周辺には、多くの湧き水の泉が存在します。知床連山の南端に位置する武佐岳の麓からの伏流水が、この遺跡群の場所で、一斉に湧き出ているのです。泉の数は80か所に及びます。地熱の影響を受けている湧き水は真冬でも決して凍ることがないため、人々はこの水を求め、竪穴住居を泉の近くに築きました。泉周辺の発掘調査では、縄文時代からアイヌ文化期に至る、さまざまな時代の土器や鉄の道具がみつかっています。泉が大昔から人々の暮らしを支えてきたことがわかるのです。
人々の暮らしを支えた泉は、動物たちにとっても貴重な場所でした。特にサケの仲間にとっては、産卵床として重要です。サケは秋に川を遡上して卵を産みますが、産んだ卵が凍ってしまっては困ります。そのため、冬でも凍ることのない湧き水近くに産卵床を設ける習性があります。大昔の人々はこの泉近くに住居を構えれば、水だけでなく越冬の保存食として貴重なサケも、同時に手に入れることができたのです。
標津遺跡群の中核遺跡、伊茶仁カリウス遺跡の「伊茶仁」は、アイヌ語で『サケが産卵するところ」を意味し、アイヌの人々も、ここが多くのサケが集まる場所として認識していたことがわかります。
オホーツク文化から見たアイヌ文化~標津湿原の歴史的な特徴の一つは、オホーツク文化からみたアイヌ文化史を伝える遺跡群であることです。
オホーツク文化は、沿海州、樺太方面から北海道オホーツク海沿岸に、5世紀から9世紀頃数度にわたって移動してきた人々が担った古代北方文化です。このうち、北海道東部のオホーツク文化は、北海道土着の擦文文化から影響を受け、トビニタイ文化という、この地域特有の文化へと発展し、後のアイヌ文化形成に影響を与えたと言われています。
アイヌ文化の歴史のカギを握るトビニタイ文化~アイヌの人々は北海道の先住民族ですが、その歴史にはまだまだ未解明な点が多く残されています。アイヌ文化には文字がなく、自らの歩みを記すことがなかったため、その歴史を紐解くには、遺跡を発掘調査してわかる考古学的情報に頼る部分が大きいのです。現在知られているアイヌ文化の諸要素の中に、クマへの信仰や海獣狩猟の技術など、およそ1200年前まで栄えたオホーツク文化にみられる特徴が存在します。しかし当時北海道全域には、オホーツク文化とは異なる擦文文化の人々が多く暮らしていました。北海道全体では決して主流ではなかったオホーツク文化の特徴が、いかにしてアイヌ文化の中に受け継がれたのかを知る鍵が、標津遺跡群を中心としたオホーツク文化の後継「トビニタイ文化」の存在です。トビニタイ文化の人々が使っていた土器には、オホーツク文化の特徴である粘土紐を貼り付ける文様と、擦文文化の特徴である口が大きく開いたかたちや線を刻んで入れる文様といった、両文化の要素がみられます。トビニタイ文化がオホーツク文化とトビニタイ文化の拠点となり、後のアイヌ文化に多くの影響を与えたであろうと考えられています。
標津町ポー川史跡自然公園 パンフレットより
そば会席 小笠原
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