常に一家言もつ 松山嘉太郎

2024年06月29日

小樽を愛し小樽に尽くす

 人も知る本道業界きっての事業の鬼である。昭和十一年五月発行の人物覚書帳=茶碗谷徳治著には『実に典型的の商人であって、その商売ぶりは商人の通癖たる下司根性がみじんもなく、自ら持すること高く常に一家言をもって坦々たる商道を歩んでいる感がある全盛時の曲辰鈴木商店あるいは三井物産のような大会社にたいしても昔から一歩も譲ったことがなく正々堂の陣をはっていた人である』と嘉太郎を評している。

 日本の私鉄王として君臨、一名強盗慶太の異名を取った故五島慶太が中央バスの乗っ取りを始めたとき、堂々と渡りあってこれをしりぞけたことはあまりにも有名な話だ。嘉太郎の信条は『約束したことは絶対守る』ということ。商売にかけてもこの信条を守り抜き、手形の期間をいまだか待ってくれくれといったことがない。高利貸しからカネを借りてで約束ごとは守った。こうしたことが金融筋でも嘉太郎の信用を絶大なものにした。

 何事につけても遠慮のない思い切ったことをズバズバ言いのける人だが、この率直さが嘉太郎の短所でもありまた長所である。大臣がこようとだれがこようと理屈に合わないとなると断固はねつける。約束を破った人間はこれを絶対けいべつするきびしい性格の持ち主でもある。

 嘉太郎は大中央バスの総帥としてはあまりにも有名。その聡明の質に透微せるすばらしい観察力もまた鋭利な断定はどの商売についても成功疑いないといわれるほど。こうした嘉太郎の能力が日本でも有数のバス会社にまでのしあがった今日の中央バスをあらしめたゆえんでもあろう。

 嘉太郎は明治二十三年七月二日福井県三国で仁平の二男としてうぶ声を上げた。家は当時小間物、砂糖、マッチ、石油、米などを扱い、また帆船ももって手広く商売をしていた旧家だった。またこのかたわら、ランプ、カバン、ランドセルなどの洋物を扱ったハイカラな商売をもしていた。同三十一年先代仁平は北海道を視察して小樽に松川合名会社をつくり義弟の宮本太吉を業務担当社員として小樽に残した。回船問屋と砂糖の卸し商売を始めたが、土地になれないせいか商売はあまりうまくいかなかった。

  そうこうしているうちに大火に会い、、嘉太郎は同四十年合名会社の見習として来道したが商売はいぜんとして不振だった。先代仁吉は同社を解散するといったが、これでは貸したカネが取れなくなると、嘉太郎は存続を主張して収入はあるが支出も多い回船問屋をやめ、砂糖一本にしぼった。

 その後嘉太郎は『会社ではどうも商売がうまくいかない』と同社を解散、個人経営で砂糖商売を続けた。大正七年から九年にかけて第一次世界大戦のあおりで砂糖は値上がり大もうけしたが、それより一年前には雑穀、でんぷんで全財産を投げだしても処置なしの大損したこともあった。しかし嘉太郎は音をあげず、どこからの援助も受けずに見事立ち直った。このときのことを嘉太郎は『そんなにひどいとはだれも知らなかったのが幸運だった。業界の信用もあったのでなんとかなったわけだ』と語っている。

 嘉太郎は砂糖でもうけたカネを植林につぎこんだり、建物を建て人に貸したりして財産をたくわえた。これがのちの事業に大いに役立った。昭和十四年から二十六年までしょうゆ会社にも手を出した。同二十九年中央バスが金融的にゆきづまって引き受けてくれないかと頼まれ、同社の社長に就任した。当時中央バスは労働組合がハバをきかしていたが、この交渉を引き受け『ストをやってはいけない。会社が悪くなっては元も子もなくなる』と組合員を説いてストのない今日の中央バスにした。この間経理の面も指導してわずか二年間で中央バスを完全に立ち直らせた。

 大正十五年市議になり、昭和十四、五年まで当時昭和会の重鎮として活躍、また商工会議所の会頭も長くつとめた。いま小樽の政財界の元老として、嘉太郎の発言は小樽を左右するとまでいわれているほど。この人ほど小樽を愛し、小樽に尽くしている人もほかに類をみなく、この四月ヨーロッパをみて回った新知識を生かしてさらに活躍を期待したい人である。

小樽経済百年の百人㉜

北海タイムス社編

昭和40年8月8日