‶材木王〟に君臨 増田久五郎
2024年06月27日
『商都小樽』建設に貢献』
大正半ばから昭和にかけて‶材木王〟の名をほしいままにしていた久五郎は、明治元年石川県は江沼郡大聖寺に、農家の長男として生を受けた。呉服反物を背負い、売り歩く小商いをしていたが明治二十五年、だれもがそうであったように久五郎も未開の地北海道雄飛を決意、最も隆盛をきわめていた小樽に落着いた。
夫婦二人の全財産が、当時のお金で十五円。これを元手に、覚えのある呉服の小商いを始めた。とくに炭鉱は非常に景気がよいころで、よく夕張線を利用、朝出るとき山ほど背負った反物が、一本も残らずにさばけたときも数えきれず、またたく間に財を築いた。
海産品にも手を広げたが、明治三十五年材木商に転身、稚内、宗谷方面にかけての製材に力進めた。。久五郎と木材のつながりは、こうしてできあがり、大正三年北見の幌内に千二百町歩(千二百㌶)の私有林と国有林の払下げを受けて、造材にも進出、次から次と手がけるものは完全にものにして行った。
天塩から北見一帯にかけて材木を買い付けたり、造材など年間二十万石を扱っていた。第一次世界大戦がはじまった年、国内の貨物船がほとんど用船となって、欧州に渡ったため、国内輸送に支障をきたしたが、このときには約三十万円をかけて千五百㌧の汽船『伏見丸』を買い入れて、北見沿岸から東京、清水、大阪、名古屋方面まで運行させた。輸送事情が悪いため、当時は材木の値段よりも運賃が高かったこともあって、久五郎は思いきって汽船を持ったわけ。戦い終わって大正十一年樺太に進出、その翌年から樺太材の造材が始められた。古くなった『伏見丸』を売却、新たにアメリカから貨物船『ハドソン丸』(三五〇〇㌧)一万三千石積載。ノルウェーから材木専用船を購入『伏見丸』(二二〇〇㌧)と命名して樺太材の搬出に当たった。
財はふくらむ一方。樺太だけで年間最高百五十万石もあつかうようになって‶材木王増田久五郎〟の名が国内に鳴り渡った。温厚で太っ腹。頭もよかったが、先を読み取る才能は抜群。『人を苦しめた金はほしくない。堂々と商いして人ももうけさせたり自分もまたもうける』ことを終生の誓いとしていた。
昭和元年には満州にも渡り、満鉄の大株主となるいっぽう満州木材をおこしたり、時を同じくして樺太西海岸上名好に増田炭鉱、豊原に製紙工場、大泊に酸素工場をそれぞれ経営、山林もかなり持っていた。このほか昭和十年には青島に本社を置いて、北支に木材と製材工場、建設会社も経営、第二、第三伏見丸を新造するなど、一時は板谷宮吉をしのぐ勢いにあった。これには二代目亀吉(八一)=東京在住=の力も大きかったと、いまなお小樽の経済界で語り草となっているが、〝商都小樽〟の建設に果たした久五郎の力は図りしれない。
小樽経済百年の百人㉛
北海タイムス社編
昭和40年8月6日
そば会席 小笠原
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