清水町のアイヌの歴史①

2024年04月05日

六度 蝦夷地へ来たことは年表にも…

~中学生のためのふるさと歴史読本~

清水町の昔を訪ねて

明治・大正・昭和

~十勝清水郷土史研究会~

①松浦武四郎 宿泊の地

 北海道の名づけ親の松浦武四郎は、この地が蝦夷と呼ばれた時代に、私人として3回、江戸幕府の役人として3回訪れています。

 来道時にはアイヌを案内役に雇い、身振り手振りで意思疎通を交わしてアイヌの言葉を覚えました。

 多彩な人で、詳細な絵図や地図を描き、川などの地名の記録・日誌を残しました。

 

 武四郎は、文化15年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂市小野江町)に生まれました。彼の家の前を通る「伊勢街道」は、伊勢神宮へと続く道。そこで多くの旅人を見て育ち、見知らぬ土地への憧れを抱いていました。17歳で故郷を飛び出した武四郎は、旅に明け暮れていきます。

 

 安政5年3月、武四郎は幕府の蝦夷地山川取調係として6回目の来道で、飯田豊之助を同行。石狩川を遡り、源流地点から陸路で狩勝を越えて、十勝川に沿って人舞(現在の人舞)に辿り着きます。

 アイヌ酋長(部族長)のアラユクは武四郎一行を歓迎し、一夜の宴を催しました。宿泊の場所は、現在の字人舞13号の岸田氏宅敷地内で「松浦武四郎宿泊之碑」が史蹟として残っています。

 当時アラユクは74才で、大型で貫禄のある姿であったと『十勝日誌』に書かれています。また、この頃のニトマフには6戸28人、クッタラウシ(新得町屈足)には8戸43人が居住していた記録があります。

 清水町の先住者は、このアラユク一族のアイヌ民族であり、後にニトマフとクッタラウシのアイヌの人たちは毛根(芽室町)に移住させられています。武四郎はニトマフの後、羽帯(ホネオップ)の丘に立ち、「このあたり雪も早く溶けて気候温暖にして地味豊なり、見渡せば柏木の原始林なり」との記述を残しています。

(北村)