初代の消防組長 二代目井尻静蔵
2024年04月19日
消火
機動力ふやし、報知機も
昭和二年に手宮町一帯をなめつくした‶手宮大火〟というのがあった。あれよあれよという間に五百余戸を焼いたというから小樽始まって以来の大火だったに違いない。それまでの消防力というのは常備消防は少なく近所の人たちが手伝うていどのものだった。この大火で消防は大惨敗をきしたわけだが、消防組織をたて直そうという声が盛り上がり、地域ごとに消防組が組織され初代組長に静蔵がかつぎだされた。
いやいやながら引き受けた静蔵だったが、常備委員の増強と機動力の整備に乗りだした。当時函館市にしか設備されていなかった火災報知機の設置を提案した。工事費は六万円、市側は予算化することをしぶったが、静蔵は当市長木川田奎彦を消防署二階に呼びつけてしかりとばした。静蔵のいうのは『汗水流してつくりあげた財産を、火魔から守るには一分でも早く火災を発見、消火することだ』ということだった。
市内百五十カ所に報知機が取り付けられたのは翌年のこと、消防署でのひざ詰め談判はいまも語り草になっている。静蔵が‶火消しの大親分〟といわれるようになったのもそこころからである。報知機のほかに常備員を二倍にふやし、消防車三台を購入、消防戦力をぐんと高めた。その報知器は昨年春まで使用され、老朽化とともに新しいのと取り替えられたのは耳新しい。
静蔵は明治十三年石狩町で漁業を営んでいた初代静蔵の長男として生まれた。名門札幌一中を卒業後家業を手伝っていたが、小樽に進出して海産物商、そして倉庫業に手を伸ばした。明治三十二年には区会議員、市政施行とともに市会議員に選ばれた。そのころから政治に顔を突っ込み、革新クラブ議員として活躍した。
山本厚三代議士の片腕となり選挙では参謀格。表面にでたことのない人で、道議会議員のころ議長に小樽の秋山常吉を推した。反対派が多いとみると、反対派議員を札幌の料理屋‶いくよ〟にカン詰めにして説得、秋山を議長にさせたという裏話もある。
進歩的な考えの人で『政治家は長くやってはだめ、一、二期でよいと思ったことをどしどしやる。そして新しい人に変わるべきだ』と語っていたという。
小樽の政治、経済界の実力者であったことはいうまでもないが、東雲町五二市嘱託職員半田五郎は『人のめんどうをよくみる方で、ばくだいな財産も政治と他人のために使い果たした人です。市議会ではあまり口をださないのですが、ここというときには必ず中にはいって決めるようなぐあいでした。それだけ力のある人だった』と語っている。
(敬称略)
小樽経済百年の百人㉗
北海タイムス社編
昭和40年8月1日
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