‶三馬〟の基礎を築く 中村利三郎
2024年02月13日
質素を旨に努力重ねる
利三郎の晩年は説教の好きな大久保彦左衛門みたいな人だった。ずけずけと遠慮なくものをいう。昔のサムライのような厳格な一面があった。利三郎の親類筋で二代目仁郎夫人となったコトは『一口でいうと質実剛健の人。行動、話し方などでも、なにせきびしく口ごたえでもしようものでしたらたいへんでした。へたなことをいうとおこられるので、なんども復唱してから話したものです。でもその半面心の温かい人でした。私が本州に療養に行ったとき、養父は全快を祈って家の中庭に松三本を植えた。この松はいまではずいぶん大きくなっています』と利三郎の人柄を語っている。
利三郎は三人兄弟の二番目として富山県の戸出町で生まれた。兄弟でちょっとした会社をそれぞれ経営していたが、利三郎は北海道で商いをしようと最初札幌にやってきた。そのうち郷里に本社がある戸出物産が北海道に支店を設ける話が出てこの初代支店長におさまった。戸出物産は当時繊維問屋をしており、支店は小樽が一番適しているだろうということで小樽を本拠地にした。ときに明治三十年ごろだった。商売は常に質素倹約を旨とした。当時の利三郎を知る新村呉服店店主=小樽在住=は『朝、店に出てくるとゴミ箱をあけて、一尺以上のナワがあると‶もったいない荷造りのときにこれをたせばじゅうぶんつかえる。ナワもお金だ〟ときつく店員にいいきかせた。そして口ぐせのように‶金がなかったら世の中は渡れない。大事にしろ〟といっていた。』といい、利三郎の倹約ぶりは有名だった。
戸出物産の店員は全員、利三郎の郷里の越中衆だった。だから利三郎はよく『北海道で働いて故郷へ錦を飾れ』と励ました。当時の店員岡本竹次郎=奥沢在住=は『自分もぜいたくをしない。また下の者にもさせないきびしい人で、店員は絶対服従でした。』岡本竹次郎夫人もごはんを食べるとき、あちこちおかずに手をつけて残すと‶食べたら全部食べろ〟といわれた。またちょっと声を出して笑っても‶なんじゃ女のくせに〟としかられた』といっている。
若いころその倹約ぶりを物語る次のような逸話もある。大阪に仕入れに行く途中のこと、お茶屋によってまんじゅうを一つ買い、その店ではお茶だけ飲む。次の店ではお茶を出してもらい、まんじゅうを食べるというぐあいで、非常にしんぼうしながら仕入して歩いた。
戸出物産では実質的に社長格だった。利三郎の力で繁栄をつづけたといっても過言ではない。そしてある日、利三郎のところにゴム会社の職工がきて、ゴムグツ業界に手を出したらと勧めた。こうしたことがゴムグツ業界への進出のきっかけとなった。大正三年ごろ呉服商売のかたわらゴムグツに手をつけて、同八年有志とかたらい、北海道ゴム合資会社をせつりつした。これが今日の大三馬ゴムの基になった。
大変研究熱心な人で、家でよく軍手にゴムをぬったりして、色々研究した。こうして初代三馬ゴム社長になったがともかく酒飲まず、タバコすわず、朝早く、夜おそい努力の一語に尽きる人だった。しかし人のめんどうをよくみて、店員たちのためたのと同額のお金を出して力になった。利三郎のこの陰の力で成功した人たちは旭川、帯広などの一流業者に多勢いる。
利三郎は倹約家であった半面、故郷と山の学校や神社などに多額の寄付をした。また国のためと植樹をしたりした。戸出物産から賞与をもらったとき、自分だけのものではないと店の者に分かち与えた。失敗してもグチをいわない人でもあった。
苫小牧、琴似、北村な農場を持ち、北村では小作人に年賦で農地を分け、いわば農地解放の先駆者だった。また定山渓の湯元ホテルを創設した。きびしい人柄だったが、その半面明るい性格でじょうだんをよくいった。晩年は義太夫と囲碁にこった。昭和十七年八十四歳の長寿をまっとうした。
小樽経済百年の百人㉕
北海タイムス社編
昭和40年7月28日
市場の帰り、大きなタイヤが…
『トラックのタイヤが外れた?荷台から落下した?』
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黒い手袋も落ちていたので
風で飛ばされないように…
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