日本のでん粉王 井上宇太郎
2024年02月12日
海外と豆の直取り引き
『日本のでん粉王』とまで名声を博し、ロンドンの雑穀相場まで動かした快男児宇太郎も、やはり裸一貫からたたき上げた小樽商人のひとりだ。
明治八年、愛媛県生まれ、十六歳のとき大阪に出て乾物問屋にでっち奉公。しかし兵隊検査で不合格になるや、すかさず『北海道で一旗…』と渡道、最も発展途上にあった小樽に住まった。
砂糖問屋マルマス石田商店でみっちりみがきをかけ、若くして支配人に登用されるなどのキレ者だった。そして三十二歳のとき、独立して、港町に店舗を構え、マルマスの砂糖と麦粉を卸したのが井上宇太郎商店の始まりだった。
たまたまこのころ、本州で『カタクリ粉』として、本道のでんぷんが脚光を浴びはじめたころで、さっそくでんぷんの本州移出に乗り出した。八雲、奈井江道南地方からわんさかとでんぷんを集めて本州送りをするいっぽう、港町に雑穀問屋の工場と倉庫をそっくり買い受けて、でんぷんの精製にも手を出した。
豪放でしかも計数的にち密な頭脳の持ち主。たちまち業界で頭角を現わし、本道のでんぷん移出の六割を扱ったほど。順調な業績を上げていた宇太郎は、大正十二年の東京大地震で、東京深川に納入していた大部分のでんぷんを灰に化し、かまどを返す寸前まで落ちたこともある。
このとき、富士銀行が損害金をタナ上げし、信用融資したために息をふき返し『日本のでんぷん王』といわれたのは、むしろこのあとのことだ。
大正十五年、市内に豆類の製造工場を四つほど持ち、本道で初めてアメリカ、イギリスと豆の直取り引きをしたのも宇太郎だった。
それまでは小樽から横浜まで運び、横浜の貿易商の手によって取り引きされていた雑穀を、直取り引きへ持って行ったのであるからその並はずれた勇気と先見の明は、いまなおいい伝えられている。
とくに昭和六年、メキシコで豆類が不作のとき、長ウズラを千五百㌧売りさばき、最も早く市場開拓を行なったり、、またロンドンには青エンドウ、アメリカには色豆、ドイツアメリカには手亡といったように年々その輸出量も数を増し、ロンドンの青エンドウ相場を左右するほどだった。
大番頭辻喜一郎を片腕としてのその活躍ぶりは、いまだに語り草になっている。腕一本でたたき上げた商人にありがちな独裁型。従業員の使い方も荒かったが、それ以上にかわいがった親分ハダ。
市会議員に出たこともあったが、べんとう食べにきた人数よりも得票数が少なく、人間の裏を悟っていらい政治からぷっつり手を引いて商業会議所議員だけを勤めた信念の人でもあった。
(敬称略)
小樽経済百年の百人㉔
北海タイムス社編
昭和40年7月27日
今日は、こちら側に多くの船が碇泊しています
いつもだったら、こちら側にいるんですが⁇❓
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