海運界の風雲児 二代目 塩田安蔵

2024年02月07日

樺太航路に豪華船造る

 現代風にいえば豪華客船とでもいおうか、昭和の初め安蔵は全財産をたたき売って千六百㌧の貨物船を買った。そして小樽―樺太間の貨客船に改造して就航させた。この船『永宝丸』といったが、客の間にすこぶる評判がよかった。というのは客室は一流料理屋顔負けの豪華さで、たたみはもちろん障子から飾りまで料理屋造り。樺太までの長い船旅はさぞたいくつだろうからと安蔵のキモ入りで造られたものだが、そのへやでも酒も飲めるという趣向をこらしたものだった。当時の樺太航路には数十隻の船が通っていたが『永宝丸』だけはいつも満員だったというから、その評判ぶりが知られようというもの。

 そのころ安蔵は小樽で同そう業を営んでいた。昭和十年には英国から八千㌧の中古貨物船を買い入れ『弘和丸』として小樽―大湊間に就航させ、海運業界でめきめき頭角を現わした。満州事変のぼっ発が好景気を呼んで、昇天の勢いで伸びたが、人生ははかないもの。安蔵の身に突然不幸が押し寄せた。

 色内町の店から一歩出た安蔵は自転車にはねられた。これが原因でしばらく床に伏していたが、間もなく五十六歳で没した。実業家としてこれからというときに、その点で安蔵は悲運だったといえよう。 

 安蔵は明治十五年新潟県柏崎町で高岡栄助の二男として生まれた。前橋中学に学んでいたが、四年生のとき小樽で回そう店を開いていた初代塩田安蔵に養子として迎えられた。初代安蔵は男児に恵まれず、一人娘にあとを継がせるため支配人をしていた酒井正七に養子を捜させていた。酒井正七は新潟の出身で、高岡栄助の妻とはいとこ。そんな関係から二代目安蔵が養子となった。

 二代目安蔵は札幌一中に転校、ここを卒業すると二代目を襲名し、家業に精を出した。スポーツ好きな安蔵は中学時代は陸上競技の選手だった。強じんなからだと生来の負けずぎらいは、回そう店の若だんなとして閉じ込めておかなかった。『船を持たなければでっかいことはない』と初代安蔵を説き伏せた。そして買ったのが『永宝丸』だった。

 八人の子だくさん、教育にも熱心で花園小学校PТA会長をしたり、竜徳寺檀家総代をしたこともある。また入船町に広大な土地を持っていたが、市が区画整理で道路をつけたいというとポンと土地を寄贈した。消防署横通りから入船町に抜ける道路がそれ、現在相生町一ノ一に住む二代目酒井正七(七六)は『二代目安蔵は性格的にはおとなしい人だったが、半面これと思ったことは全財産を投げ出してでもやり通す人でした。小鳥をかわいがり、事故に会わなければ実業家としてまだ伸びた人でしょう』と語っている。

小樽経済百年の百人㉒

北海タイムス社編

昭和40年7月23日

今日 2024.2.7水曜日10時半ころ

あれは、もしかして…

一目散に向かいました

手づかみ

手掴み

と言いながら

なかなか

広範囲での

鯡の群来

でした

漁師さんも

向かいました

16時を過ぎても乳白色が続いています

こんばんは、カズノコ食べよっ

今までにないほどの長時間 そして濃度?の濃さ