三等車で折衝に 河原直孝
2024年02月06日
市長時代 あくまで温厚な人
『河原はなんにでも納まる徳のある人間だった』と先輩の田辺新一はいう。
直孝の父が京都府立第一女学校の校長をしていたころ小樽選出代議士の寺田省帰が同校の先生だった。こんな関係で直孝は来樽、北海道銀行に入社した。寺田が小樽電機会社にはいったとき、直孝も同社に転じた。この会社では専務にまでなったが当時、定山渓から札幌へ湯を引き札幌市内に温泉をつくる計画の札幌温泉土地に出資、そのときの金で二百万円という赤字を電気会社がかぶったことから退社するはめになった。
このことは直孝にとって大きなマイナスで、直孝の経営センスを疑う人もいる。だが、彼の性格が温厚で友人に恵まれていたこともあって、小樽市街自動車会社(中央バスの前身)の社長に迎えられた。
直孝は非常に交際の広い人であった。これを物語る一例として‶どんな宴会の席でも、河原の姿をみないことはない〟といわれたほどだ。彼は自発的に進んで仕事をするタイプでなかったからエピソードというものは少ないが温厚篤実な人柄で、人のために受けた迷惑にたいしてグチひとついわない利口な人格者。『河原は経営者というより教育家となるべき人だ』といわれたのもこのへんにあるようだ。
彼の人格が金融筋にも大きな影響力を持ち、‶河原の裏判があれば…』と重宝がられ、各会社の役員を兼ねていた。また昭和四年から同八年まで小樽商工会議所の会頭を勤め、また同十二年から終戦の年の春まで小樽市庁の座にあった。『三等列車に乗ってよく道庁にかよう市長だった』と、当時の河原市長を知る人は語っている。
晩年の彼は目を悪くし、階段を歩くに手すりに頼らないと登れないほどになり、市長を引退したがまもなく没した。(敬称略)
小樽経済百年の百人㉑
北海タイムス社編
昭和40年7月22日
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