北洋漁業に着目 新谷専太郎
2024年02月05日
日ソ貿易の促進を図る
専太郎は先代喜作の跡を継ぎ、漁網の製造と販売。ロープ商なども行なったが、さらに小樽市街自動車の専務、小樽取引所と北海製紙の監査役などにたずさわり活躍した。
さらに早くから北洋漁業と日露貿易にちゃくもくし、この発展のため急先ぽうとなったことは特筆すべきだろうことだろう。
専太郎は日本軍が北樺太にいた大正九年に、市内の実業界有力者と組んで北洋商行を設立、盛んに小樽港からの移出に力を入れた。ある時品物の代金として砂金六十㌔(十六貫)を持ち運んできたことがあるが、このとき小樽税関では『こんなものを取り扱ったのは初めてどうしたものだろうか』と、とまどったという。
その後、日露の国際情勢が悪化、日本人の撤退などもあって、北洋商行は解散のやむなきにいた。しかし、専太郎は『商都小樽をさらに躍進させるためには港湾を活用すること、それにはロシアとの貿易を促進すべきだ』と強調した。こんなことがあってから専太郎は昭和二年シベリア視察団の団長としてソ連に渡り、とくにその感を強くした。
まずソ連領事館と商務館を小樽に誘致することが先決だと、率先して誘致運動を行ないこれに成功、小樽日ソ協会を設置して理事長に就任した。
北洋商行から日ソ協会と専太郎を補佐した益山義平は『ソ連についてのことは第一人者だった。またよく人の話を聞く人だったし、気骨のある人。市内実業界実業界ではこれほどの人はいない』と専太郎の人がらをこう語る。資産家の二代目は往々にして先代の財産を固守するか、放とうするものだが、専太郎は男まさりといわれた母フサ子(初代板谷宮吉の姉)の教育を受けたため、学業優秀で東京高商(現一橋大)を首席で卒業したほどだったから、事業についても常に新しい経営方針を持ち、これを実行した。
日ソ平和の積極的さはこれを物語っているといえる。ただ、潔癖だっただけに二二が四の真理を知ってい二二が五という哲理をわからぬ人だったといわれ、ときには包容力に乏しいことを指摘された。これだけに腹心の子分を持たなかった。
小樽経済百年の百人㉑
北海タイムス社編
昭和40年7月22日
北洋漁業には出かけられないけど
赤い石採取に
出かけました
途中、漁師さんから言われました
「海藻を採ったら、捕まるよ。」
『ハイ。』と答えました
イワシかな?一匹打ち上げられていました
鯡の手掴みは 捕まるかな?
『捕まっても、いい~。』
雪山ができましたトコロは
今日のトコロは半分でゆるしてやるか
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