独力で電灯舎 倉橋大介
2023年05月11日
明治28年初めて灯す
明治二十八年一月、小樽に文明の光が投じられた。大介が独力で経営した小樽電灯舎(加力発で)が百三戸(三百戸ともいわれている)の民家に百三十灯の電気を初めて送電したのだ。
『おーい、大家の家に電灯というのがつくんだって、見にいくべ』
『ランプよりう~んと明るいんだとよ』人々はこの日夜ふけるのを子供が遠足を待ちこがれるような気持ちで過した。
一方長いこと使ってきたランプに変え十しょく(燭)ほどの電灯をつけた座敷には、近所の人を迎え座ぶとんと茶菓子が用意され、結婚式でも迎えるようだったという。
電灯は無事つき、ランプ生活に別れを告げた家はあったが、それも結局は上流階級の家庭だけであった。このため電灯の需要は少なく、大介の経営は苦しかった。大介はもっぱら明治生命、明治火災、帝国海上運送、大同生命などの代理業を営み、此の利益をつぎ込みながらこの光を消すことはしなかった。北海道小樽区実業家百撰立志編のなかにも『事業家としてひいでた人で樽港市街の電灯は多年の経営から得たもの。区民に文明的一大こう(鴻)益を与えた』と大助をたたえる一文がある。
大助は山田銀行支店長から、共同運輸副支店長を経て日本郵船支店長になった人だから、当時のインテリで美鬚(シ)をたくわえたところは英国紳士だった。またタマ子夫人も才媛(えん)で婦人会を組織活躍した。
温厚な性格だった大介だが、内面はブドウできたえた豪胆さを持っていた。このことを象徴する彼の武勇伝としていまでも語り伝えられている話にこんなのがある。
明治二十四、五年ごろ倉橋宅に応答が押し入ったが、彼は少しもあわてずタマ子夫人に『おい、ピストルを持ってこい』といい、それを強盗の胸につきつけた。びっくりした強盗はホウホウのていで逃げたという。‶もうひとつの語り草には、しない(竹刀)で強盗を一撃したともいわれている〟
その後、大介は小樽五品取引所の理事長に推選され、四年間この任務に励み、晩年は大蔵省から拓殖銀行創立委員を嘱託されるなど小樽はもとより本道の経済界に大きな貢献をした。
北海タイムス
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