海運、銀行の設立 向井嘉兵衛

2023年02月02日

家憲「利益を社会奉仕」

 向井家の隆盛のために①子孫を反映させること②利益の二割は社会奉仕にすること③名誉職につかぬこと…という家憲がある。三代目向井真吾(札幌在住)=中△(なかうろこ)向井=はこれをよく守り質素をむねとし、信仰が厚い。

 嘉兵衛と妻甲の間には子供がなかった。このため使用人のなかでまじめに働くと養子に迎えた。真吾は『私はその十七番目ですよ』と語っている。

 篤志家であった嘉兵衛のことは明治二十八年発行の『北民表誠録』にこう記述してある。一金一万三千七百円軍事公債応募額、一紙巻きたばこ二十五万本陸軍献納、一金五十円赤十字寄付金、一金十一円歓送迎会へ寄付金

 この名簿には一円、一円と記載されており、約五千人の名があるが、嘉兵衛は最高額の寄付だった。これは当時の店の繁栄を知ることができるとともに、社会奉仕のために金惜しまなかったことがよくわかる。

 日清戦争当時の嘉兵衛は、本道実業家として名をはせた。小樽では開運、稲穂、色内町で海運、倉庫、質屋、呉服用品の卸しと小売り、雑穀業を営み、さらに中立銀行を設立している。また札幌でも質屋、呉服用品商、古物。旭川で精米所、、新十津川で水田とその活躍はまさにスーパーマンだった。

 また当時の新聞を見ると『〇毛引きナシ』と正札販売を強調したり『極薄利オモッテ』廉価販売で繁栄したことがよくわかる。

 嘉兵衛は質素な人だっただけにこれといったエピソードがなかった。彼についての文献もあまりない。小樽の長老渡辺得郎さんは『私は二十歳代のころ嘉さんたちがつくっていた百歳会に招かれたことがあったが、そのときはやせ形の好々爺さんというところだった』という。

 ともあれ典型的な商人で、むだはいっさい許さず、厳格な人であった。

 嘉兵衛の養子たちが向井組合という同族会をつくった。嘉兵衛はその頭取となったが実務は、互選で総長を撰んで、その総長にゆだねた。当時三十歳に満たぬ向井次郎が、非凡な才能を認められ店務のいっさいをまかせられた。しかし総長の次郎が区議に出馬したこの日に『お前は私の意思にそむいたので向井家からひまをだす』ときっぱり縁を切ったという。『最善をつくした商売で失敗しても、それは私が責任を負う。しかし名誉欲に走ることはいかん』というのが嘉兵衛の信念であり、のちの家憲だった。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑥