小樽‐新潟間定期航路の開設 板谷宮吉

2023年01月24日

英国から貨物船を購入して

 宮吉は一代の成金なり、越後国刈羽郡高浜町大字宮川の人。安政四年一月生まる。明治十六年志を北海道に立てて小樽に渡来し苦境に処して健闘すること数年その後独立して商業に従事…。『北海開発事績』にはこう記されてある。

 越後国で与坂藩のご用商人のせがれとして育った宮吉少年は非常に気性の激しい少年だった。北海道に渡ったのは十四歳の年、小樽はニシン景気にわいていたころだ。樺太との貿易も盛んで、一獲千金を夢見て渡道する人が多かった。宮吉少年もまた、商人のせがれとして平々凡々とした生活に耐え切れなかったのだろう。

 八年間のデッチ奉公でためた資金をもとに荒物雑貨の店を開いた。農産物、肥料、海産物を売買、精米、みそ、しょうゆ、商売の手を広げ、販路を道内から青森、新潟と内地に求め、着々土台を築いた。そして明治二十六年、英国から五百㌧の貨物船を購入、『魁益丸』と名付け、小樽―新潟間に定期航路を開設した。『これからどんどん外国との貿易が始まるだろう。それには船だ。』とよく語っていたそうで、外国船の買い入れは小樽っ子はもちろん道内の実業家たちをアッと驚かせた。

 日清戦争がその船出に拍車をかけた。『魁益丸』は政府の雇い入れとなり、その保障から持ち船をふやした。必然倉庫業にも手が伸びた。三十七年の日露戦争後の突発で波に乗った。四十五年板谷商船株式会社を創設、この間小樽区会議員、小樽商業会議所会員として町の発展にも貢献した。〝小樽に板谷あり〟といわれたのもこのころ、山林、土地、建て物、農場もつぎつぎと手に入れた。

 性格は気短だったが、反面また義理深い人で、機を読むにもひいでていたそうで、こうと思ったことは必ずやり遂げる人だったという。

 残された記録には表面のことしか書かれていないが『努力』が一代の成金にしたと語りつがれている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人③

そして、

小樽雪あかりの路25 2023.2/11(土)~2/18(土)開催