網巻き装置を考案 青木貞治
2023年01月13日
いまも第一線 近代漁法の草分け
貞治は半生を海と戦い、漁業に生きてきた。大正七年ごろすべての漁船は網にかかった魚を上げるのに、網を手で引き上げていた。非能率と動力による巻き上げを考えていた貞治は、発動機を使った巻き上げ機を考案、当時の持ち船第一、第二梅丸に取り付けた。成果は上々、船を走らせながらつぎつぎに網を引き上げられるので、一日の漁獲量はそれま七、八倍にもなった。
当然のことながら他の船主間でも注目を集めた。現在は殆んどの底引き船が使用している巻き上げ装置は、貞治が考案した装置だ。このことだけをみても貞治が、漁業開発に残した功績は大きく、底引き漁業の草分けといっても過言ではない。
母船式サケ・マス流し網船団を組んで、カムチャッカ沖に出漁したのも貞治が初めてのようだ。このころから企業合同がなされ、太平洋漁業、沖取合同、大同漁業、平出漁業の四大会社が合併して貞治は取締役に迎えられた。動力船で沖取りする貞治の夢が実現、北洋サケ・マス漁業と本格的に取り組んだのだ。
貞治は明治二十一年、鳥取県気高郡青谷町で長尾甚四郎の二男として生まれた。十歳のとき実母の弟青木多一郎の養子となり、利尻町字鴛泊に移った。小学校高等科を卒業すると多一郎を手伝ってニシン船に乗った。日露戦争で樺太が日本の領土になると他の漁師とともに海馬島にわたったが、『漁法開発には学問が必要と単身上京、京華中学に入学してそこを卒業した。
さらに農商務省水産講習所漁業科に学んだ帰道すると道庁にはいり、農林省調査船に乗って北千島を調査した。『これからの漁場は北洋しかない』とにらんだ貞治は道庁をやめ、函館の漁業会社に勤めたが、大正七年独立、小樽で第一梅丸を建造するとともに網の巻き上げ装置と取り組んだ。
現在、貞治は日東水産会長をはじめ、北海道船工業、東海石油、日東新世冷蔵各代表取締役のほか、北洋サケ・マス漁協組理事など、十指にあまる漁業関係の役職を持ち、後進の指導と漁業開発の第一線に立っている。『自分の道は自分で切り開く』これを信条とする貞治は、そのことばのとおり自分の力で今日を築いたのだ。
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『え~、日東水産の会長だったんですか!』
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