週休制に先べん 村山美喜生

2022年12月17日

寿原食品 敏腕に高い評価

 年商約二十六億円、この十月には増資、資本金二千五百万円となる総合食品卸し業『寿原食品』の社長として、その敏腕ぶりは道内外の業界から高く評価されている。

 【一流商品を扱おう】【一流の信用を得よう】【一流の社員になろう】をモットーに掲げて、精力的に陣頭指揮。温厚な人柄は社員やメーカー筋から大モテ、人間味あふれるたくみな話術をマスターしている。

 明治二十九年四月、石川県は金沢市にうぶ声を上げた。金沢商業から専修大学に進んだが中退、横浜で南太平洋貿易株式会社に入社、英領フィジー諸島やオランダ領だったジャワ島、セレベス島などを中心にコプラ(ヤシの実)の買い付けに、若い情熱を傾けた。

 当時東本願寺の著名僧大谷光瑞師に心酔、大谷師のいう『青年よ海外に雄飛せよ』の言葉を真書きするように、美喜生少年の胸はおどり、学業半ばにもかかわらず○○まず少ない社員の一人に選ばれ、南方に派遣されたのである。

 第一次大戦が終わってから、義父重太郎が営んでいた小樽市場株式会社に支配人として迎えられ来樽した。ときに二十六歳。貿易商社できたえ上げたスマートな人あたりで、うまく社内をまとめ、文字どおり重太郎の〝たよりある片腕〟になって骨身を惜しむことなく仕事に没頭した。

 それまで扱っていた鮮魚は集鱗社に撒かせ、また青果物は同社青果部主任〇栄次郎を独立させて譲渡、昭和五年一月、一般食料品だけをようになり、資本金二十五万円で寿原食品株式会社とした。

 道内ばかりでなく、本州、樺太、台湾にまで進出、とくに水産カン詰めなどの売り込みに力を入れた。また樺太材の造材飯場に流す日常生活必需品、あるいは越年用食料品など、手広くさばいた。

 第二次世界大戦によって、統制が強化、北海道食料卸組合、北海道乳製品卸組合、北海道油脂卸組合でそれぞれ常勤役員として統制物資のやりくりに労を多くした。昭和十七年、重太郎の懇請で社長を引き受けてからは『働くときは働いて遊ぶときは遊ぶ』と毎月第一、第三日曜日を休日とし週休制に先べんをつけたのをはじめ、旧態依然とした機構なども新しい時の流れに合わせて改良、積極的な体質改善に乗り出した。

 業界には〇〇『あまりハイカラにやりすぎる』という声も起きたが、信念を貫き通し、戦後は道内販売網の整備、拡充に力こぶを入れて、今日の隆盛を築いた。

 市議、道議などをしていた重太郎を目のあたりに見なれたせいか政治にはいっさい背を向け、どんなに進められても断固として心を動かすことはなかった。昭和十一年から二十八年間、商工会議所会員として活躍、現在サッポロビール共栄会長、北海道SB会長、北海道チキン会長、小樽食料品卸協会長など、業界のよきまとめ役として忙しい毎日を過ごしている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人㉞

 

寿原弥平司

寿原弥平次(長男)

寿原猪之吉(娘婿)→寿原英太郎→寿原九郎(養子)

寿原重太郎(三男)→村山美喜生(長女の婿)

 

ですね。