努力でつらぬく 辻 喜四郎
2022年09月20日
職工から今の地位に
鉄工所の職工からたたきあげ、今日の地位を築いた努力の人…それが喜四郎の横顔である。PTA会長をしているので、学校の祝辞を述べるのによく出かけるが、そんなとき『私は家が貧しかったので色内小学校の六年聖を出るとすぐ小樽の土屋鉄工所というところに見習いにはいった。小学校のころの思い出というとバケツを持たされて立たされたことがあった。こんなときなど山にでかけたが‶何くそ〟と思い、子供心にもがんばり抜こうと誓った。それだけにいまとなってみると学校に感謝しております。また苦労して学校へ上げてくれた親にありがたいと思っています。』そのことばはちっとも飾らない…喜四郎とはそんな人である。
『人生は努力すればなんとかなるもの』この信条を終始貫いてきた。遊びごとはいっさいやらず、いまでも職場の工員といっしょに朝七時十五分に出勤、仕事をバリバリやっている。喜四郎は、ぽんと肩を叩いて話し合う。
この人と思ったら、そのふところにとびこんで、いいところをどしどし取り入れる。たとえば松川嘉太郎中央バス社長などの長所をいれて自分のものにしてしまう。
それに喜四郎は根が職工からたたきあげた人だけに工員とわけへだてをしない『おい、どうしたい』そこには社長という肩書はみじんもない。こうした喜四郎の飾らない人柄が、辻鉄工所には労組はいらないといまだにできていない。それだけに喜四郎は工員のなかにとびこんで、朝礼のときには工員といっしょに君が代を歌いそのあとラジオ体操を欠かさない。小樽の町工場としては他に先がけて工員住宅や独身寮を建て、職場の敷地が六千六百平方㍍なのに福利施設の敷地は二倍の一万三千二百平方㍍にものぼっている。工場内の機械化にも心を尽くす、ボタン一つで操作できる機械のを五台も入れて合理化をはかっている。
喜四郎は明治三十三年四月十八日生まれ。父喜三郎は荒物、トウフ業を営んでいたが、八人も子供がいて生活は苦しかった。小学校を出るとすぐ鉄工所にはいったが、その当時の苦労を次のように語っている。
『カジ屋の見習いとしてはいったが、最初はゴハンたきやそうじの仕方が悪いといってよくなぐられた。しかし、‶なにくそ〟とがんばった。そのうち機械をいじるようになったが、勉強が必要であることを痛感して夜学(私塾)にかよい、五年間勉強した。このときは満足にごはんを食べたことがなく、歩きながら握り飯をほおばり、昼は工場、夜は塾へかよった』
間もなく兵隊に行き、成績優良で大隊中わずか二人のうちの一人として一年十カ月で除隊となった。その後清水鉄工所に職工長として迎えられた。二十九歳まで同鉄工所にいて昭和四年独立した。日給などをためてつくった辻鉄工所だった。
『当時陸海軍に仕事をよくもらいに行ったものです。積極的に動いたのがどうやら認められて、仕事もどしどしふえていった。戦争中は軍需工場として規模も大きくなり、侍従武官〇〇〇たこともあります。従業員は三百人もいたものです。だから戦後は仕事も少なくなり、工場を縮小するのにたいへん苦労した。まあ朝鮮動乱でひと息ついたわけだが、ふくれあがった工場の処理をどうするかで頭を痛めた』喜四郎はその事業をこうも語っている。
三十八歳のとき市議に当選して七期目、市議会議長にもなった。いま自民党支部幹事長として市政のために尽している。辻鉄工所は資本金一千五百万円、従業員も五十人おり、年商一億円と業界でも地道に商売を続けている。
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