やん衆の慈父 青山政吉

2022年09月18日

口すっぱく安全操業を提唱

 『朝起きは三文の徳』『酒飲んでもくずすな』を終生のオキテにしては、みずからにきびしい青山政吉は、高島漁場(高島、祝津地区)のやん衆たちから慈父のように慕われていた。

 安政二年三月山形県酒田市にうぶ声を上げた政吉は、実父留吉とともに来道、祝津に住まった。留吉はちょんまげをゆって、〝ちょんまげじいさん〟の異名をとったほどの変わり者。だが仕事は徹底していた。

 政吉は父の漁業を発展させるため、あらゆる努力を惜しまずに、その任に当たり、家業の盛り上げに労が多かった。そして家督を譲り受けた明治四十一年八月には、常用漁夫の数は三百人にのぼっていた。

 豪放らいらく、使用者のめんどうはよく見、細かなところに気を配る一面も持ち合わせた人だった。朝から晩までのふるまい酒でも、人前では絶対に身をくずすことはなく酒豪のほまれ高かった。

 地区の教育にもとくに熱心そのもの。学校への寄付、寄託は数え上げることができないぐらいで、祝津小学校を育てたカゲの親とまでいわれている。

 家畜を引き継いでから大正十二年までは折からのニシンくき(群来)とかみ合って隆盛をきわめた。ニシン漁に主力を置いて、小樽近海ばかりでなく、増毛沖にまで進出、漁場を確保していた。

 政吉親方を頼って漁夫は遂年数増すばかり。百五十隻のニシン船で約六百人のヤン衆が、『オーラエー』『ヤス―コイ』『ヤットコセ、ヨイヤナ…』と威勢のよいかけ声をかけ合いながら網起ニシンだけで一シーズン魚カスにして一万石を越えたことが何度もあった。

 すぐれた洞察力と、強い責任感を買われて高島郡漁業組合長、小樽水産組合長、財団法人大日本全国水産経済会小樽支所長などを任され、工務にも熱心な人だった。

 とくに漁夫の安全については、口を酸っぱくして安全操業を提唱、水難救済会での尽力と労畜は、現在もなお地元漁民者たちの間に語り伝えられている政吉の遺志は脈々と漁民たちの間に浸透しているわけだ。

 

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