ロンドンの日本男児 林 松蔵

2022年04月05日

 大正三年六月(一九一四)第一次世界大戦が勃発した。その前の年の北海道は降霜と豪風雨で大凶作だった。だがこの年から好況となり豆相場はどんどん上っていった。港町から堺町にかけて大きく弓なりにまがった泥んこ道を「売ったァ」「買ったァ」と狂ったように叫んで走り回る仲買人の群れが溢れていた。

 ゴム長靴だけは舶来ものながら、その上は股ひきものぞく無尻外套の肩まで泥をはねあげて彼らは右往左往していた。取引所があり神戸貿易商と直接結びついている小樽は産地の帯広より豆ブームでにぎわっていた。たかが豆選り女工などと軽蔑できないご時世だった。並の男より遥かに日当の多い彼女らは化粧も厚く、カマボコ型の金の指輪をキンキラキンと光らせてさっそう(颯爽)と歩いていた。

 遠い欧州で対戦が始まると船舶は世界的に不足したから、運賃はたちまち上昇、船腹を獲得することは至極の困難事とされた。だからこのころの輸出商の主な仕事はスペースをうまく手に入れることだった。加えて欧州積みには輸出商に運賃の五がリベートされたから、うまくスペースがとれるとちゃっかり他店にゆずって利益を稼いだものである。

 このころのロンドンの豆相場は横浜、神戸の貿易商がなかにはいって積み替え輸出で売り買いされていた。だが鼻息の荒い小樽の雑穀業者のことだから日本郵船の欧州命令航路が開設されると、早速直輸出を開始したものである。だから貿易商も内地商社の支店を加えて、それぞれ敏腕なエキスパートを輸出部門に配置して専ら輸出販路の拡張に当たらせた。有名な貿易商社は三井物産がドットウェル商会、岩井商店が中村多四郎、鈴木商店はサミユール商会、野沢組が井上宇太郎、湯浅貿易が林松蔵を動かした。後に小樽信用金庫の初代理事長にまでなり市会議員、道会議員、小樽商工会議所議員などを勤めた林松蔵は、この欧州の戦火を契機として巨富を手中におさめ、霧のロンドンに男を売ったご本人である。

 昭和二十六年、七十五歳でこの世を去るまで余ほどのことでない限り、ついぞ笑顔をみせたことのない男だった。彼が亡くなったころの堺町界わいはもう大正初期の熱狂的なにぎわいは鳴りをひそめてしまった。ブームを伝えた旧小樽新聞社の建物だけが、そのときのまま港町に残っていまは小倉商店本社になっている。

 松蔵自身の個人的な身の上については、だれがなにを聞いてもまともに応じたことのない男だった。社員に対しては冷酷なまでにきびしく臨み、ほんの一部の幹部は別として、女房子持ちはほとんど採用しなかったほどの事業の鬼もそのスタートは有幌町の中村支店専属の仲買いブローカーであった。

 泥靴のハネを肩まで蹴上げて売った買ったとわめきたてて走り回った一人である。彼がどうやら一本立ちになったのは大戦のはじまる前年、大正二年であった。いまの小樽商業もと庁商が開校し、手形交換所が開店した年でもある。常灯台とか常夜灯などと呼ばれて地元民にも親しまれた信香町灯台が、このころに台地を削りとられて石造りの倉庫が並び始めていた。松蔵が産地の委託問屋を開業して間もなく第一次大戦である。

 青エン一俵(六十㌔)五円か六円の相場がピィンとはね上って一挙に五倍近い二十七円から二十八円の高値を呼ぶようになった。ロンドンと直接取り引きとなって儲けに儲けた松蔵が持った豆の選別工場は六軒、車座になって豆を選る女工の総数実に六百人。同じころ低迷続きの小豆を買いつけて、大戦のため食糧不足に悩む英国に小豆を送りこんだ高橋直治が、一夜にして赤いダイヤのキングにのし上がった。

 高橋は道内の小豆一俵を五円から七円でざっと十三万俵も思惑買いして寝かせておき、戦争たけなわのころに十六、七円と三倍近い値で売り捌いた。松蔵も負けずに稼ぎまくった。

 第一次世界大戦が終ったのは大正七年(一九一八)この前年にロシヤで革命がおこり、レーニンの時訪れていた。豆蔵場でしこたま儲けた連中は、毎夜毎夜東雲界わいの料亭で芸者をあげて飲めや歌えのドンチャン騒ぎでうつつをぬかしていた。酔って帰りがけに自分の履き物がわからず、十円札に火をつけてローソク代代りにしたとか便所にいってチリ紙がなく、札束で尻をふいたなどというタワけた伝説が生まれたのもこの当時である。

 このころの一発といえば二十五㌧。テボ(手亡)なら五百袋(ドイツ向け)アオエン(青豌)で五百六十袋(イギリス向け)毎日山から到着する雑穀は貨車で百台以上。しかも取り引き所の売買は先き物商売だったから、専売業者以外の素人が投機の対象として飛びつき、一時はテボとアオエンはばくち材料も同様にみられ、結構にわか成り金も生まれた。生産地でも百姓は去年アオエンがよかったからと、今年も質はち置いてアオエンを作付けするとこれが暴落一家は四散して娘は女郎に売られるという悲劇は枚挙にいとまもない。

 事実、大戦が終ったころから昭和初頭にかけて世のなかは悪いことばかりの連続だった。港湾労働者のストがある。関東大震災がおこる。金融恐慌が訪れるなど好況の後の不況時代が続いたものだ。

 林松蔵の名がロンドンでミスター・ハヤシともてはやされたのはこんなことがあったためである。ある年北海道の豆類はほとんど不作に終った。前からの契約が実行できない、送りたくても現物がないのだ。イギリスの輸出商代表がわざわざ小樽にやってきて直か談判に及んだ。松蔵も大いに弱ったがそこは相場を張って生きてきた男。ぽんと胸を叩いて「よろしい契約分は送りましょう」と損を承知で現物をイギリスに送りこんだ。林松蔵男でござる…と利益を超越してのこの快挙はイギリス紳士も感激して拍手を送ったわけである。

 大正末期、鈴木商店のアオエンやテボの買い占めで市価は暴落した。やがて解合の後は逆に大暴落したから実需を目的とする業者は、あおりを食ってすこぶる迷惑したものである。大正九年から十年にかけて豆選り工場からの失業者はざっと六千人にも及んだ。かっては令嬢スタイルで肩で風をきって歩いた金の指輪の女工たちは、もともと満足な教育も受けていない手宮高島あたりかの女たちだったから転落のスピードも早く、あっという間に苦界に身を沈めたり、街娼となって春をひさいだ。

 ここで少々横道にそれるが、小樽からの雑穀が欧米諸国にまで声価を高めたのは厳格な輸出検査制度があったからだ。

 「乾燥十分ニシテ品質粒形一ナルコト。色沢良好ハ勿論、〇土砂、塵汚、雑草種子及ビソノ他夾雑物ヲ除去シ、異種ハ勿論同種類トイエドモ、乾燥程度ニ差異アルモノノ混入ナキコト」と決めていた。また「大豆、小豆、小麦、裸麦、菜豆、豌豆、菜種、亜麻種子、稲黍、玉蜀黍、辛子種ハ正味十六貫匁入リ、大麦ハ正味十五貫入リ」などと量目は厳格に規制している。

 多くの業者が景気の上下とともに栄えたり滅びたりのなかで相場師らしからず、手堅く蓄財した松蔵は昭和七年の大不況の折に倒産寸前、気息えんえんの小樽信用金庫の後始末を引き受けてこれを見事にたて直した。

 彼は昭和五年、九年、十三年、十七年と四期にわたって市会議員に連続当選している。太平洋戦争突入のころ彼と同じく市議であり、昭和四十三年の今日もなお議会人として活躍している人は見延庄一郎、辻喜四郎、谷井清信、前野留次郎、東策の五氏だけ。松蔵はこのあと道議会にも進出したほか商工会議所議員も勤めたが、いつも毅然として表情を崩さぬまじめ人間そのものであった。

 徹底した個人主義的性格の持ち主だったのか、プライベートのことはほとんど口にしなかったし、人に問われても明かすことのない性格だった。雑穀商として名をなす以前はどんな生いたちであったのか不明である。雑穀のメッカであった小樽はいまは昔、当時の熱気をおびた公共振りを知る術は、古老の思い出話に頼るほかない。売った買ったで一夜にして城主にもなれれば、乞食にもなり下がる。高い山と深い谷底の連続という人生を送った相場師、雑穀王の林松蔵は海外にまで名を売った商人としては数少ない人間像といえよう。

 商売柄に似ずいつもニガ虫をつぶした厳しい表情で一生を送った彼も、当節にはみられないタイプの豪商といえそうだ。

続・小樽豪商列伝(18)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇