気骨の甲州人 名取高三郎一家

2022年03月10日

 今年六月十四日、水天宮神社の宵宮祭の日を最後に第一銀行小樽支店が消えた。ずっと昔、その第一銀行が店名にふさわしい一番の電話番号を入手しようとして当時大枚一万円を積んで交渉した持主、それが金物業の老舗名取商店である。しかしこれは実現しなかった。いかに大金をつんでも手放さぬと名取家は鼻もひっかけなかった。

いまは二局の〇〇〇一番。文字通りナンバーワンを獲得するため、前夜から電話局前に坐りこみコモかぶりの四斗樽から酒をぐい呑みして受付の朝を待ったという高三郎の逸話は小樽に初めて電話が開設された頃の有名なエピソード。

 高三郎は安政五年十月二日に山梨県の農家に生れた。水晶とブドウしかとれぬ甲州の農家は貧しい家が多く、高三郎も水呑み百姓をやめてなんとか金をためたいと考えていた。叔父の今井素白は当時、鋸の行商をしていた。後の〇上(本来は、丸の中に上という文字が入っています)今井商店の店主となった人で北海道の金物業の草分けである。高三郎も叔父に従って鋸行商に精をだすようになった。明治八年正月、三百石の弁財船で新潟から寿都に渡った。

 概して本道の金物商は越後系と甲州系の二派に分れる。山甲〇甲の屋号はみな山梨出身者とみていい。名取商店の屋号は〇上である。今井商店は〇上一だったからここの支配人まで勤めて独立した時の主家の屋号に一の字をひいて己のものとした。

甲州人はその後も続々来道して今井商店から鋸を買って道内各地を行商して歩き、やがて函館、室蘭、釧路、北見などに落着いて店を構えた。高三郎が独立したのは明治三十年渡道して二十二年後である。

 「人間若イ時ニ働イテ貯金ヲ為スベシ。年頃ニナレバ妻ヲ迎エ子供ハ生マル。妻方、親類ノ公債ナドノタメ費用多クナル故、独身ノウチニ働イテ金ヲ残セヨ」

 高三郎の祖父が耳にタコのよる程言い聞かせた教えである。叔父に従って冬の日本海の怒涛にもまれて渡道したとき、余りの激しい船酔いで「いくら金が儲かってもこんな苦しい目にあうのは嫌じや」というと叔父今井素泊は「金銭は危ないところにしかない」ときめつけたという。祖父の教え、叔父の訓育が身にしみて、以後高三郎はその生涯に愚痴は一度もこぼさなかった。

 高三郎は一銭一厘のムダをせず稼ぎに稼いで金物、鋼材を扱う道内有数の卸問屋にのしあがり、小樽鋼鉄組合長を長く勤めた。和を以って尊しとし誠こそ大事と家人をいましめたものだ。

 名取家の二代目は婿養子章賀(ふみよし)であり、当主三代目三郎もまた婿養子で島口家から名取の家に入っている。三郎のほかもう一人秀三なる養子もいたが既に物故している。いま専務取締役で札幌支店長でもある哲(さとる)はこの秀三の子息。

 借金するな、人の保証はする衣類に絹布を用いるな…とは高三郎が叔父に叩きこまれた処世訓。この教えをそのまま受けついで実行したが、では高三郎はまるでケチかというとそうでない。生れ故郷山梨の小学校建設のために多額の寄付もしており、太平洋戦争酣わのころ、ポンと二十万円を軍に寄付した。飛行機一機分の代価であった。これを献納せいと言われた家人が二万円でなく二十万円なので、単位を間違ったのではあるまいかと恐る恐る確かめるとまぎれもなく二十万円だった。

 二代、三代と婿養子が続いても「実に子弟の教育、躾けのよさは類いまれなものです。」と絶賛するのは稲穂町北海ホテル斜め向かいのこれも金物商中山昌次郎氏だ。中山家の三男は名取氏の媒酌で猪股孫八家に婿入りしている。月下氷人でもあり血縁にもつながるので、特に名取家の事情に通じているという。

 高三郎は明治三十四年に会議所議員、翌三十五年から大正三年までは区会議員も勤めたがもともと政治に血道をあげる人ではなかった。噓が嫌いで誠実を貴んだ彼が詭弁を弄策する政界の水にあうわけがない。昭和二十四年、身内の一人一人にみとられ、それぞれ手を握って永眠した。ときに九十二才であった。

 二代目章賀もまたよく義父の教えを守って名取商店のノレンを守った。この章賀にも隠れた逸話がある。謹厳にして実直、働くことだけが生甲斐のようにみえた彼にたった一つの道楽があった。それは親しい友と卓を囲んで楽しむ家庭麻雀。メンバーは猪股孫八、中山藤太郎天野智恵美である。天野とは北大名誉教授だった天野先生である。四人は毎週土曜集まってパイを手にした。会費は一人五百円なり。

 一等は千円の菓子、二等は五百円、三、四等は二百五十円の菓子折りと決まっていた。いま四人全員が健在であれば孫八七一才、章賀八九才、藤太郎同じく八九才、智恵美六三才。この週一回の麻雀会は前後十五年続いたから平均年齢といい、一日二荘、一荘に四時間はかかったというお年より同志のノンビリした麻雀は日本でも珍しい方だろうと取沙汰されている。

 なにせ明日は土曜日というと麻雀のことで頭がいっぱいになり、ソワソワと心落着きなく夜も満足に眠れなかったという二代目当主の楽しみぶりは、きくだけでも微笑ましいくらいのものである。

 ウィークデイに社用と称してゴルフ場に堂々とでかけてゆく近頃の若いサラリーマンのハレンチ(?)な行動からみれば、なんとささやかな娯楽であったろうか。

 さて名取家には几帳面な初代店主高三郎が手まめに綴った生いたちの記録がいまも大切に保存されている。折にふれて書き記したその小冊子には小樽の市史にも貴重な資料となる箇所がかなり多いということだ。その大切な書誌はいずれも養子の二代目、三代目と継承されて今日に及んでいる。

  名取商店が〇上一の屋号で色内町に看板をあげたのは明治三十年のこと、第一銀行が小樽に支店を開設したのは大正に入ってからだ。そして一番という電話番号に惚れこんで買いとり策をたてたが、にべもなく断られてしまった。その第一銀行が預金者に一言の断りもなく小樽支店閉鎖と突如発表して取引きグループの明星会会員を憤激させたのは今春四、五月ころの話だ。

 時移り世は変り小樽商人の心あるものは札幌に出店をもって稼ぎまくっている。樽僑といわれる昨今である。且て大阪商人の上をゆくか…などと取沙汰されたほど商いの上手な小樽商人の群れ。この人たちが商機を掴んだのは一体なんであったろうか。

 文字通り堅い商売の金物業では名取、清水、高木、中山とどの店も堅実な営業を続けてゆるぎない。それは例えば名取高三郎のように、奢らず、高ぶらず、商売一途と心がけ、質素倹約を旨として「水を粗末に扱うな火を大事にせよ」と家人を戒めた家訓が、その形容に多少の相違はあってもどの老舗にも殆んど似たり寄ったりの家訓が守り貫かれているからではなかろうか。

 小樽の経済界はまず松前系の人々が種をまき、ここへ肥料をまいて育てたのが加賀の人たちで、最後に稔り豊かな収穫をしたのは越中、越後の人たちといわれている。そのなかで山国の甲州出身者が萬丈の気を吐いているが、そのエネルギーは奈辺にあるのか。武田信玄のその昔から城を築くことなく甲州一円そのものが城であるとして専ら隣国諸邦を攻めとった、あの迫力あるバイタリティを血脈のなかに波うた、渡道して北海道狭しと銀行性にうちこんだ雑草の強さにも似た勤勉ぶり。

 これが甲州人のド根性ではなかったのか。人に迷惑をかけぬ代り、人にも迷惑をかけられぬという徹底したいい意味での個人主義、最近の若者には利己主義者は多いが個人主義者は少ない。高三郎の生涯を範にしたい。

~続・小樽豪商列伝(16)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号

里舘 昇