忠義な白鼠 柴野仁吉郎
2022年01月09日
柴野仁吉郎を小樽の「豪商」の一人に加えるべきかどうかについて筆者はかなり迷った。小樽港の港湾関係者で市史編さん室の諸先輩にも訊き質してみたものである。
というのもこれまで本誌に連載されてきた多くの商人はいずれも独立独歩、たとえ最終的には家産を傾けて雲散霧消の結末を辿った人と雖も、精気旺んで活躍していた頃はまぎれもなく港小樽の景気を左右した実業人としての地歩を確実に占めていた。
その言動がときの社会情勢に大なり小なりの影響を及ぼしたことは事実。その点仁吉郎は生涯を板谷商船の大番頭として支配人の位置に甘んじて過した。実質的には船会社の経営を一手に掌握した実力者ではあった。少なくとも社長ではなかった。
名目的な形式にこだわれば、「豪商」という名詞を冠するにふさわしいかどうかは判らぬがだが、少なくとも海運財閥板谷一族にとって「柴野のとっつあん」の存在は輝かしい社史の数頁を埋めて余りあり「板谷の柴野か」「柴野の板谷か」と謳われた。社歴五十五年の重厚な人物像はなまじ中途半端な小金をためたばかりに、本妻と妾が掴みあいの喧嘩腰でその遺産を争ったなどという質の悪い商人より、小樽の隆盛とともに生きた仁吉郎の生涯に多くの教訓と感銘をおぼえる。
そこで多少の異論はあるやも知れぬが、敢えてここに「豪商」列伝中の柴野仁吉郎を登場させることにした。
十五、六年前、毎日新聞北海道総局(現道支社)が主催する「毎日清話会」なるものがあって年に何度か有名ゲストを招いて政治、経済、文化などの講演を開いたものだ。会員は主に市中経済人が多かった。
講演会の後はいまはない東雲町の雅叙園、焼失前の豊楽荘、北海ホテルなどで宴会を開くことが多かった。当時、筆者は毎日の小樽通信部に関係していたため会の開催日時を連絡したり会費の徴収に歩いた。
某日、まだ壮健な柴野老を訪れて会に出席されるかどうかを伺ったことがある。用向きが済んで帰りかけた筆者に老は
「ご苦労だった。君ちょっと待ちぇ」
という。相手は聞えた老舗板谷商船の支配人だ。こっちは新聞屋になったばかりの青二才。なんぞ失態でも…と緊張したことだった。
老は黒光りする大きな机の抽出しから緑色の袋をとりだし、なかから何枚かの銅貨をだして
「煙草でも買うとええ」と渡そうとする。辞退すると
「安給料のくせして無理するな、とっておけい」
有難く頂いて帰って報告すると「柴野さんはそういう人だ。あの人の机の中にはどんな小銭でも袋別にしてきちんとしまってあるのだ」と聞かされた。
海運界の雄、板谷商船にあって五十年の大番頭を勤めた柴野支配人のまじめな人間ぶり、勤倹ぶりを示す片鱗といえる。私事にわたった点はお許しを戴く。
仁吉郎は明治二十年十月十日〝佐渡情話〟で聞えた新潟県は柏崎の荒浜で漁網作りを業とする仁十郎の長男に生れた。この年、後に仁吉郎が勤めることになる板谷の店は荒物業を営んでおり、永井町の大火で焼失されている。
総領の仁吉郎は中学をでるとすぐ家業を継いでいる。当時の中学校卒業と言えば希少価値のあるインテリである。商売が漁網製造だったから、父の仁十郎は毎年春のなると売掛金を集めるため北海道に渡ってきた。
仁吉郎が初め渡道道したのは明治四十一年、地十歳の春のことでニシン景気に湧きたつ小樽に第一歩を印した。日露戦争が大勝利に終り、南樺太との往来も俄かに頻繁となって、小樽港は目ざましいにぎわいをみせていた。
目を瞠るような小樽の好漁ぶりが仁吉郎青年をとらえてしまった。一旗あげられる…青雲の志を湧きたたせた彼は、集金を終って帰郷する父仁十郎と別れると、まず同郷人の柴野宇吉が経営する宮島商店に勤めることになる。
明治二十六年発行の「開拓指〇北海道通覧」及び「北海道実業人名録」をみると色内町十六番地の柴野又造(米穀荒物商)信香町十三町地の柴野喜兵衛市展(網芋商)の名はあるが宮島商店はない。宇吉はまだ‶小樽港内重立樽衝天及営業者〟に数えられていなかったらしい。
仁吉郎はこの宮島商店に二年ちょっと勤めた。陰日向なく律儀に働いているところを板谷宮吉に認められてスカウトされた。明治四十三年春である。
板谷商店で彼に与えられたポストは支配人の職だった。弱冠二十三才、津軽海峡を渡って小樽の土を踏み、僅か三年後のことだから出世コースを順調に歩んだことになる。
但し‶支配人〟の肩書はこの時以来、彼が永眠するまで板谷商船というノレンをバックとして不動のものであった。仁吉郎はカミソリのように切れる俊才ではなかったが、とにかく努力一途の性格で派手なことの嫌いな男だった。
板谷社長の見込み通り仁吉郎は入社以来いつも表面にたたぬいわば板谷宮吉という主役の陰で大道具、小道具までに細かな神経を配った見事なパイプレーヤーであり、ディレクターでもあった。
いわゆる縁の下の力持ちという使命に甘んじていたともいえる。彼は常々家人に向って
「われわれ一家がこうして安易な生活を送っていられるのも会社や社長あればこそ…」と繰返し、なにかことあれば真夜中でも構わず会社にでかけた。
当節の人間なら普通に仕事をしていれば、報酬は当然、とりたてて社長のお蔭と有難がるのはいささか的外れと片づけてしまうだろう。
だが越後衆の社長と支配人が互いにその人柄を信じあって一つの企業を育てあげていった。この人のもとなら…と身を粉にして働いた仁吉郎の胸底に流れるものは「板谷の為なら」の忠誠心にこりかたまっていたとしても不思議ではない。
二代目宮吉こと真吉にとって仁吉郎支配人は、丁度三代将軍家光にとって口うるさい爺いであった大久保彦左衛門の存在に似ていたといえる。睡眠四時間の鉄則を守って働きぬいた初代宮吉の生活信条を徹底的に叩きこんで生っ白い坊ちゃん育ちとしなかった仁吉郎のアドバイスが預って大きかった。
日露の大戦が幸いして日本海運の雄となった板谷商船。この時期が初代の覇業時代なら二代目宮吉の頃は、専ら政界に躍りでての板谷家黄金時代。社長不在の留守を守って社員の上に萬盤の重きをなした御意見番仁吉郎は短気で間違ったことはこれっぽっちも許さぬこわい存在であった。
板谷商船の支配人ながら商工会議所議員を勤め、自民党小樽支部の要人でもあった。戦後のことである。真面目一方の人間だが情にもろい。
自分が貧しい家に育ち、向上心にもえながら中学しか卒えられなかったという一事が、仁吉郎自身を教育熱心にさせた。育英資金に糸目をつけず、貧困家庭の子弟に学問をすすめたことは隠れない事実だ。
柴野のとっつあんで通り、どこに顔をだしても、その肥満した猪首スタイルで押歩く顔役でもあったが、小銭の果てまで無駄な浪費は避けて、きちんと古びた袋にしまいこむ越後衆の律義さを終生失うことなく、さいごまで舞台裏の演出者に甘んじた仁吉郎は、そうざらにみられる人材ではない。
~続・小樽豪商列伝(8)
月刊 おたる
昭和42年8月号~44年6月号連載
里舘 昇
そば会席 小笠原
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