ベニヤの殿様 坂口茂次郎
2021年12月18日
昭和四十二年代の今日、札樽新港、或いは石狩湾新港の仮称で輸入材受入れ体制の完備を目的とする新港の造成が青写真として描かれている。この新設案に対して遠浅さの日本海沿岸の砂浜にそんな港を造ろうとする計画自体が無理だとする声もあれば、小樽港内が狭すぎるのだから副港的役割を果す上からも必要との意見もあって賛否両論まちまちだ。
ところがいまから四十年前、株主の誰もがこぞって反対するなかで敢えて持論を押通し実現して成功させた一企業主の先見の明は、右の新港建設問題とは実に対称的なのでいささか遠廻りの感がないではないが敢えて蛇足としてつけ加えておく。
大正末期から昭和初頭にかけての銭函一帯は、年中水がたまり雑草の繁るままにまかせて畑地どころか水田造りも容易ではないツンドラ地帯だった。いうまでもなく動力用の電力も通じない貧しい漁村だったから漁民は春の鰊漁期を終えるとみな出稼ぎにでて生計をたてる家ばかりだったのである。
誰もが顧みない、いわばゴースト・バァレェジ(死の村)ともいえるこの銭函村に合板工場を建設しようという途方もないプランをたてたのが坂口茂次郎その人である
彼の構想はツンドラ地帯を掘って湧きでる水をためて水槽貯木場とし、掘りだした土砂は湿地に埋めて工場敷地にする。工場の用水は近くの星置川から取水し、廃材を燃料代わりにして火力発電を行なう。出稼ぎで生活する貧しい漁民は合板工場で採用すれば、それこそ一石二鳥、三鳥となる。至近の距離にある小樽港を利用して原木の集荷、製品の輸移出に努めれば銭函ほど合板工場としての立地条件にふさわしい所はないと卓を叩いて力説し、株主役員一同を遂に承服させた。
新宮商行銭函工場の創設に先だつエピソードである。
熊野川の川上から流送されてくる紀州杉を河口で集散する町が新宮市。この新宮の川原船町で米と木材を商う坂口儀助の二男として明治九年(一八七六年)十二月三日に生れたのが茂次郎である。野に下った西郷が、故郷の九州で西南の役を惹起する一年前、後の合板、インチ材の老舗を築いた新宮商行の開祖が誕生した。
父の儀助は熊野川上流の十津川から紀州杉に乗って新宮におりてきた。徳川末期慶応年間と伝えられている。杉材はここからさらに江戸は深川の木場に送りこまれていたが、儀助はこの原木直送で商売し、かたわら米屋もかねていた。内儀さんの名は美津、つまり茂次郎の母だ。
後年、シメウロコの商標を世界の業界にひろげた程の茂次郎は小さい頃から負けず嫌いの強気一点張りという性格だったらしい。
七つで新宮小学校に入ったがどうしてか途中で大石元郷の私塾に入って学んだ。勝気な性分では当時の小学校の教室のムードがもの足りなかったのかも知れない。とにかくこうして塾をでると父の仕事を手伝って商法を身につけ二十才で同郷の古川守之助の妹、栄を嫁に迎えた。
現社長栄之助の母である。息子は母の名をかしら文字に継いだというわけだ。
新婚ムードを味わっているときではない。日清戦争が大勝利で終った年である。木材業は大いに多忙を極めていた。二年後に彼は独立し父と同じコメ問屋と木材の小割業を始め、二十四才のとき和歌山県十津川七色村の山林立木を買いこみ、谷川の水を利用して水車の回転に製材業を計画したが、この牡蠣的なプラン(?)は見ン事失敗に終った。
明治三十九年(一九〇六年)茂次郎は折からの日露戦争の大勝利によって日本領土となった挑戦をめざし、同郷人の利光小三郎(建築請負業)植松新十郎、坂井弥三太(木材業)らと謀って仁川港に一つの会社を創めた即ち新宮商行の誕生である。
小さな島国にひっそりしていた日本国民は北にも南にも新領土がふえて自由闊達な活動を始めた。三井物産や大倉組など名だたる商社はいうまでもなく、大小無名の照射が諸官庁の建設や鉄道敷設工事たけなわの朝鮮に殺到した。
新宮商行は機敏にも三井物産の下請けを引き受けて着実に成果をあげ、当局から優良商社と指定業者にされた。新宮商行が盤石の基礎を固めた創成期である。
当時、北海道は農地建設の国是に従って開拓計画がすすめられ、移入してきた人々には広大な土地、原野が格安で払下げられ、支障となる林木の伐採が盛んに行なわれていた。
挑戦で広軌鉄道用の枕木三十万本を調達しなければならなくなった茂次郎は北海道の伐採に目をつけ、小樽に腰を落着けながら道内をくまなく飛び歩いてナラ材をかき集めた。北緯五十度線を国教とする南樺太の領有は小樽の開陽亭できまった。
樺太の落葉樹が枕木にむくとみた茂次郎の眼力は狂いがなかった。西海岸の国境地に近い安別に収財所をいち早く設置して格安の伐採材を集めて大陸に送り込んだ。面白い程に儲けることができた時期だった。
熊野川の急流を下った筏流しの度胸と負けん気の土根性と旺盛な研究心。紀州と江戸の往復はいつか日本海や黄海をゆききするばかりか、世界の七つの海を股にかける大企業「新宮商行」を築きあげるに至ったエネルギー源はこの三つの精神力から発したといっても過言ではあるまい。
今日、済代目社長栄之助がうけついでいる新宮商行はインチ材メーカーとして聞え、小樽港唯一の欧州定期航路に積込むヨーロッパ向けインチ材を生産しているが、もともとは合板の老舗である。
茂次郎は美麗な栓の木目と、海外で歓迎されているナラの虎班の木目の合板を作りあげてみたいと日夜考え続け、たまたま(昭和九年)英国のアンド・ピアース社との間に木材直輸出の契約が成立したのを機会にベニヤ生産に踏切った。銭函工場の建設はこうして始まった。
かくてシメウロコのマークはホワイト・オークの名とともに世界の市場を席巻することになる。「買う身になって製品を売れ」とは茂次郎の繰返した言葉だ。もう一つ「われわれは造材伐木と同時に植樹を忘れてはならない」とも戒め続けたものだ。
木材で巨万の富を得た先代中村卯太郎も木を愛し、樹木を大切にした。坂口茂次郎も全く同じ精神に生きた人だった。彼は昭和三十二年三月、北海道に雪どけの春が近ずく頃、故郷の新宮氏三輪崎の自邸で八十二才の天寿を全うして、精力的な活動に終始した生涯を終えている。
社長栄之助は大正九年生れ、昭和十七年小樽高商を卒えている。近代的センスをその浅黒い全身につけて海外視察も忘れず、小樽経済界のトップクラスにランクされて活躍している。新しいチェンソーは材木産業機械化の尖兵だ。そのチェンソーのうちマツカラーの銘柄を扱っているのが新宮だ。
小樽は稲穂町の新宮商行本社の前にある同社販売部のウインドウには切れ味のよさそうなマツカラー・チェンソーが輝いている。大正の初め二代坂口茂次郎は米国イーガン社製の帯鋸機を中頓別に新しく設けた製材工場に備えた。道内製材機メーカーがこの新しい帯鋸を見学するためやってきた。
父も子も新しいものにはすぐとりつく新鮮な感覚をもっている点では甲乙つけ難い。
戦後の小樽経済界にあって常に海外の新知識を導入するフレッシュマン栄之助は「少し小樽不在の期間が多すぎるのではないか」との蔭の声をどう受止めているのだろうか。
皮肉なことに…という形容が当るかどうかは別として、海のものか、山のものか判らぬ石狩湾新港実現のための期成会会長は彼坂口栄之助その人だ。
道産材の枯渇が輸入材の量をふやし、父茂次郎が且て樺太木材統制販売組合理事長も勤めた北洋材そのものもどんどん小樽港の若竹貯木場に入ってきている。南洋材も続々輸入される。貯木場が狭くなるのは当然だ、水面積の拡張案が漸く緒につこうとしている。いまの計画では現在の二倍は収容できそうだ。
そうなると石狩湾新港は当分あてにしなくても良さそう…との観測も一部にある。尤も着工は昭和四十四年度とも取沙汰されているが…。
小樽市内に数える程しかないメーカーの一つ新宮商行は南紀の木材の町の名を明治、大正、昭引続いて小樽に植えつけた。儀助-茂次郎-栄之助と三代にわたる木材の老舗はこれからの港町をどんな色のノレンで包みこむかが楽しみである。
~続・小樽豪商列伝(6)
月刊 おたる
昭和42年8月号~44年6月号連載
里舘 昇
そば会席 小笠原
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