北の醸造王 石橋彦三郎

2021年12月14日

 昭和六年新年号の講談倶楽部に「小樽市金満家名簿」なる財閥番付表が掲載されている。トップを飾っているのは、当時の金額で五千万円と記録されて海運王の名をほしいままにした板谷宮吉である。貴族院議員の肩書も重々しく、同じ年の納税額は八万三千百四十一円とあるがこれが二位の藤山要吉ともなれば、同じ海運業でもゼロ一つたりない五百万円と隔差大きくしており、以下は四百万、三百万と僅差で順位づけられている。 

 そしてこの名簿の第三位にランクされているのが醤油醸造業の石橋彦三郎で資産は四百万円納税額五千五十九円、当時の金満家ベスト・スリーに入っている。小樽市史(第四巻)の歴代市長業績概要のなかで昭和六年度に「市庁舎は創立三十余年を経、老朽且つ市の発展に伴ない、狭嗌を告げ改築が叫ばれ」この年の九月市会で総工費二十六万二千円、二ヶ年の継続事業と議決されている。

 彦三郎個人の資産がこのとき四百万円だったから彼一人の財産だけで小樽市役所の庁舎が軽く二十軒近くは建設できる計算になる。まさに掛値なしの金満家だったわけだ。尤もこの年の小樽市は財政は一般、特別会計併せて三百九十九万三百九十二円とありから、ほぼ石橋家の資産と同額ということになる。

 

 さてこの彦三郎は近江国彦根町の商人彦治の五男として安政二年五月に生れた。当時の彦根藩城主は有名な井伊直弼、彦三郎が三つになった安政五年に例の‶安政の大獄〟事件が起り漸やくもの心ついた六才のとき(万延元年)直弼は桜田門外で水戸浪士に刺殺されている。

 彦三郎は幼名を捨次郎といった。捨次郎、捨夫、留治などという名前は多くの場合、貧しくて子沢山に悩む親が、もうこれ以上子供はほしくないと願って破れかぶれの気持でつける場合が昔多かったというから、案外父の彦治もウンザリ顔で命名したのかも知れぬ。捨次郎は明治七年渡道して小樽で米穀荒物商を営んでいた実兄彦三郎の店を授けるべく北海道にやってきた。英才の井伊大老を生んだ彦根の生れの故か、捨次郎も幼い頃から頭がよく、殊に商才に勝れていたようで、まだ若干十八才の頃、その当時の金で六万円なりの大金を勤め先の大阪は阿部幸の店主に委せら山形まで商売に飛んだ程の逸材だったから、兄もどれ程心丈夫だったことか推察できる。

 ところがこの実兄が捨次郎が来樽して五年後に死去したのでそのまま襲名した。一時は荒物商から呉服太物商に転じて商売を続けたが、世間の経済事情や時流の動きを正確にキャッチすることに秀でていた二代目彦三郎は「本道ノ地、能ク良好多産ナル大豆、大麦ノ消流ヲナスハ経済ナルノミナラズ、内地移入ノ防圧ヲ為スニ足ルハ、惟ソレ醤油醸造ニアルカト考案」(小樽の人と名所・坂牛直太郎著)して丸ヨの星と丸ヨの商標で敢然と醸造業を開始した。

 この頃、味噌醤油の醸造が地元小樽で全く行なわれていなかったかといえばそうでない。殆んどが他府県から移入されていたとはいえ、既に明治十年頃から引継いで醸造されており、坂下久兵衛、鈴木市次郎、刈田定右衛門らが営んでいた。彦三郎は一方で呉服商を営みな醤油造りにも精魂を傾け、年々その商圏を拡張してゆき、遂には東北、北海道、樺太の各地に代理店を置いて年産九千石を生産して文字通りの在を築きあげたのである。

 この頃はマルヨ石橋のほかに妓楼の番頭上り‶よろず屋両三〟こと早川両三も亜麻油とともに醤油を造っていたし、北川誠一や小豆の王者・高橋直治も醤油を手がけている。明治二十六年四月から翌二十七年三月までの一年間に小樽から道内各地に出荷された醬油の量は一六四八石と記録されているから、石橋商店だけで年産九千石も醸造したのはずっと後年のこと。

 大正二年七月六日付で彦三郎は時の賞勲局総裁従二位勲三等伯爵の正親町実正から勅定の緑ノ勲章を賜わっている褒賞の冒頭に次のように謳っている。

 「資性実直凪ニ北海道ニ航シ醤油醸造業ノ有望ナルヲ知リ、苦心経営〇業ニ従事シ、製品ノ改良ト販路ノ拡張ヲ図リ、益々醸造場ヲ増築シ、改良法ヲ研究シ以テソノ発達ニ努メ…云々」

 初代彦三郎は彦根藩が外冠警備のため、日高国沙流村に藩士を差道したとき、その御用商人として一行に従がい、箱館を経て小樽にきて根を下し米穀荒物商を開いた。いわゆる近江商人らしい事業の見通しをつける機敏な閃きから、開港場小樽こそは将来、殷賑繁栄を極める土地となること間違いなしと睨んで落着いたものだろう。その兄の予想通りに小樽は栄え、弟彦三郎が莫大な資産を蓄えたわけである。

 とに角、彼の商売のやり口は原料の精選からあらゆる生産設備の実際、雇用人の使用方法に至るまで、なに一つとして通じないものはなく、総ては組織的順序で整然と実行したというから、並大ていの凡人ではなかったといえる。現代風にいうなら経営の合理化、生産性の向上に腐心したというところだろう。

 この彦三郎の恩恵を受け、同じマルヨの商標で昭和の今日も現存運営中の野口商店の基礎を作ったのが現野口誠一郎には祖父、野口喜一郎の厳父、わが国酒造界の名門「北の誉」の野口吉次郎そのひとである。

 金沢で醤油の小売店を営んでいた野口吉次郎が醸造に手をだして失敗し、起死回生の地を開拓途上の北海道に求めた。小樽にきたものの古着の行商や沖仲仕で露命をつないでいる吉次郎を杜氏として開いたのが彦三郎である。

 

 彦三郎は性格がまことに温厚だが、こと商売となると只一筋に力行努力を重ねるタイプ。だから商売には熱心だが、いくら巨万の富を築いても政治運動は好まなかった。この時代に次々と政界に乗りだしていった商人は渡辺兵四郎、岡崎謙、藤山要吉、井尻静蔵、中谷宇吉、寺田省帰、稲葉林之助など小樽政史に長くその雷名を轟かす人物は枚挙に暇がない。

 然し彦三郎は名誉職を嫌って政界にはついぞ足を踏み入れたことがない。たった一つ、地方自治体に僅か関係したことといえば、関西地方で当時陸軍大演習が行なわれたことがあるが、このとき故郷彦根の町民のたっての懇請もだし難く、暫定的に名誉町長を仕方なく引受けたことだけである。

 かくて只ひたすら家業に専念した結果、マルヨ石橋商店の醤油は本州の〇界の老舗キッコーマンの需用を凌ぎ、毎回の品評会や博覧会には必ず優賞、北海道の小樽こそは日本に於ける醤油醸造の一大王国の一時代を現出したものである。

 醤油をつくって財産を築いた彼は政治運動にこそ関係しなかったが、国を愛することでは人後におちなかったようだ。それもいかにも金満家にふさわしく、金力で愛国博愛の精神が旺盛であることを明示した。

 日露戦争が勃発するや、ポンと二万二千六百円也を投げ出して軍資金募集に応じた。このほか済生会に三千円、水道敷設費に三百円、慈善病院の新築には百五十円、育成院にも百五十円を寄付しているし、他にも多くの義損金を関係方面に献じている。

 総じてこの頃の立志伝中の出世頭は、大半が貧困家庭のなかで育ち、幼い頃から苦労の辛酸をなめ尽くして仂らきづめに仂いて蓄財したものが多い。勉学の暇など無論ないから無学文盲の金満家も少なくなかった。従って事業に成功して余裕ができた豪商は、いずれも学校建築用の土地を寄付したり、若い子弟に商学資金を惜しみなく与えたものである。この事例は裏を返せば己は無学…だという半生持ち続けてきた劣等感を学園建設子弟教育などにバックアップすることで、幾らかでもまぎらわそうとしたとも解釈できよう。

 彦三郎もいわゆる慈善事業にはかなりの協力ぶりを示しているが、これは単に有り余る金力で虚名を世間に広めようと努めたのでないことは、開拓計画が進んでいた当時にふさわしく農業の振興に大いに力を尽した実績でも想像できる。彼は醤油作りにいそしむ傍ら、上川郡雨粉原野や、夕張郡角田村の未開地を開墾して二十歳や水田の造成に力を入れた。彼の努力が上川や栗山、長沼一円を北海道の米どころにしたといっても過言ではないし、不思議な符号とでも言えることは栗山、旭川が小樽と並んで道内酒造界の重要なポイントになっていることだ。

 彦三郎の店で仂らいて野口吉次郎が後に‶北の誉〟の野口一家の始祖となり、旭川の岡田重次郎も石橋商店で仂らき、後にマルヨ野口商店旭川出張所が開設されたときの責任者として出向き、今日の基礎を作っている。北海道の主たる醸造家はいずれもそのスタートを石橋商店で切っているという事実は面白い。

 彦三郎は老いてから養子泰一に家業をまかせ、暫らくは住ノ江八丁目に別居して店務を督励していたが、晩年は京都に隠居して老後を過ごした。

 

~続・小樽豪商列伝(4)

里舘 昇