小樽の女 ⑤ 有名歴伝(中)

2021年04月13日

題字 寿原秀子さん

カット 藤本俊子さん(全道展会員)

 

赤裸々な心の遍歴

時代の制約に傷ついた‶才女‶

 

その行動により世人に多くの話題とセンセーションを提供した岡田嘉子、山田順子、小坂順子の三人はいずれも自己の内面の要求に忠実であろうとして時代の制約のなかでもがき、傷ついた女たちだった。

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昭和十三年一月女優岡田嘉子と演出家杉本良吉が日本領南樺太からソ連領北樺太へ越境した事件はファシズムの台頭と左翼思想弾圧の嵐のなかで出口をふさがれてちっ息しかけた人々にとってきわめて象徴的な意味をもっていた。嘉子は明治三十六年東京渋谷に生まれたが父耕平が地方新聞の記者の主筆をしていたため各地を転々、小学校だけで八度も変わった。大正六年十五歳の彼女は今の北交ハイヤーのところにあった北門日報の主筆となったため父について小樽に来た。小樽での生活は一年ほどだったが派手な服装でボーイフレンドと街をわがもの顔で歩いたり、ダンスパーティーを開いたりで人々の目を丸くさせたが、一方では北門日報記者として学校訪問などを担当していた。月給は十七円だった。その後の彼女の生き方をみるとき小樽での生活が思春期の彼女にどんな影響を与えたか興味深い。とにかく女優になりたくて松井須磨子のもとに弟子入りすることになっていたが、大正七年須磨子が自殺したため女子美術学校に入り、卒業後第一次舞台協会の研究生となった。これが女優としての本格的な第一歩で以後彼女は舞台に好演技を示して人々の人気を集めた。また恋愛遍歴でも話題となり杉本良吉は、映画‶椿姫〟で共演して撮影中途にカケ落ちした竹内良一につづく四人目の恋人だった余談だが杉本には恋愛結婚した智慧子という妻があり、彼は越境するときま病気で寝ていた智慧子をいたわっていたが彼女は杉本の越境後うらみ言一ついわず死んだという。岡田嘉子はいまもなおモスクワに健在、演劇の勉強を続けている。

岡田嘉子

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作家徳田秋声との恋愛、小説‶流るるままに〟を書いた山田順子は秋田県本庄の生まれ、古雪という花柳界に育った。いまの潮陵高校を卒業、東大を出て弁護士をやっていた増川才吉に美貌をこわれ結婚した。ところが理想と違って増川家は火の車、負債で身動きもできない状態だった。一時夫婦で留萌に逃げたこともあった。そんな生活にやり切れなさを感じた彼女は満たされぬ気持ちを文学に求め‶流るるままに〟を書き秋声のツテで文壇に出ようとした。大正の終わりから昭和にかけてのことだがその小説は一応出版されたが秋声の言葉を借りると‶家庭への反逆気分だけは受け取れる〟が‶文章も文字も粗雑〟で‶彼女の美貌ほどには興味がもてなかった〟ためか秋声とのゴシップ的興味しか読まれなかった。‶フラッパーの見本のように〟いわれていたが‶魂のいこいの場所を求めて戸惑いしているような〟彼女を五十歳半ばをこえていた秋声は青年のような一徹さで愛した。あるとき秋声が親友の正宗白鳥に順子の小説を‶どうだ〟といって見せたところ‶何んだこんなもの〟と白鳥が一蹴したため秋声が怒り、しばらくの間二人は絶交してしまったという話が伝わっている。順子は数年間暮らした秋声と別れたあと文学には見切とつけ東京銀座で‶ジュン・バー〟というバーのマダムになった。

山田順子

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赤裸々な感情を俳句に表現し、いまなお句作活動をつづけている人に小坂順子がいる。彼女は小樽港町で新聞販売店をやっていた小坂隆之助の娘で大正七年の生まれ量徳女子小学校から庁立高女を卒業した。卒業後二三年で四国松山出身の井口という医学博士と結婚したが、‶夫を同性の手に奪われた〟ため離婚した。句作は昭和十八年ごろからはじめ石田波郷に師事した。

‶後世に残るような句をつくりたい。だがそのために句作をしているのではない。俳句は苦しい時のなぐさめ、私の無二の親友〟と彼女はいう。離婚後新橋から秀松と名乗って芸者に出た。さしたる芸もなかった彼女はこの時期ずい分苦労したらしい。‶野分中三味線もってよろめける〟この句はそんなころの自分の身の悲しさをよんだものであろう。現在熱海と築地で旅館兼料亭経営しているという。句集に‶野分〟‶はしり梅〟があり数年前読売文学賞の候補となった。

小坂順子

港町にある小坂順子の生家=いまは越崎商店の倉庫兼店員宿舎となっている

 

白波がたっている海

北防波堤を越える波も

それでも

荒海へ向かっていくフェリー