小樽の女 ④ 有名歴伝(上)

2021年04月13日

多くの芸能人を生む

ナンバーワンは‶ターキー〟

題字 寿原秀子さん

カット 森本光子さん(道展会員)

 小樽は女性芸能人を多く生み出したことで有名である。水の江滝子、ナンシー梅木、小林千代子、松原操、小樽生まれでないがここで一時期を過した人々に岡田嘉子、岩崎加根子、柴田早苗などがいる。このことは伝統や因習に束縛されることの少なかった小樽の女の性格をよく物語っている。

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水の江滝子は小樽が生んだ‶才女ナンバー・ワン〟あろう。レビューに志した動機は‶実力さえあればエラくなれる〟ことに魅力を感じたためという。彼女は家が貧しく、また‶学校の勉強があまり好きでなかったので、学歴といえば小学校卒業というだけで本名は三浦ウメ、大正四年小樽市花園町に生まれた。父は郵便局につとめていたが兄妹が多かったため生活が苦しく、一家は一歳のときに借金で首がまわらなくなり東京に夜逃げした。昭和三年彼女は松竹楽劇部の第一期生に応募した。姉の勧めと家計を助けるためだった。それから三年間はレッスン、レッスンに明け暮れする毎日で、ウダツがあがらなかったが、十七歳のとき青山杉作に見出されてはじめて男役としてデビューした。そしてその後二十五年間のわたって‶男装の麗人〟としてこの名声をほしいままにした。彼女はまた一方で踊子組合?の闘争委員長であり、昭和八年ハタチの彼女がレビューガール百人余を統率して行なった待遇改善要求のストライキは‶才女〟としての彼女の名を一躍高めたものとしていまなお語り草になっている。昭和二十八年彼女は少女歌劇から引退したが翌年映画製作を再開した日活から日本映画界はじまって以来初めての女プロデューサーとして再出発した。石原裕次郎という破天荒なスターを発掘したことは彼女のプロデューサーとしての才能がナミナミならぬことを示す大ヒットだった。

水の江滝子さん、‶ターキー〟というより、いまは日活のドル箱裕次郎映画の大プロデューサーだ。

その裕次郎が小樽とゆかりのあるのも面白い。

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ナンシー梅木こと梅木美代志がマーロン・ブランドと共演したアメリカ映画‶サヨウナラ〟でアカデミー賞をとったことは小樽ッばかりでなく日本国中をアッといわせた。いまの日活中央座の奥手にあった梅木鉄工所が彼女の生家である。子供のころから独特のカスレ声で歌ばかり歌っていたという。学校での唱歌の成績はあまりよくなかった。兄が通訳をやって居た関係で米兵とのツキ合いが多かったが、彼女のカスレ声の魅力を発見したのは彼女の家によく遊びに来ていたエドワードという軍曹だった。米兵の集会所で歌っているうちに評判となり本格的にジャズ歌手としてスタートしたが、日本ではパッとした人気が出ずやむなく渡米したのが運のつきはじめ、とうとうアカデミー賞という金的を射止めてしまった。受賞後むこうのテレビ・ディレクターと結婚、もうヒトツ話題をまいた。

ナンシー梅木

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‶情熱の歌姫〟‶放浪の歌姫〟といわれた小林千代子改め伸江とミス・コロムビアで売り出した松原操は‶涙の渡り鳥〟と‶旅の夜風〟でそれぞれ一世をフウビした。二人とも大体同年配であり、三浦環を目ざしてこの道に入った点では同じだった。千代子は明治四十三年稲穂町東三ノ二四に生まれた。色内小学校庁立小樽高女を経て東洋音楽学校に学んだが、色内小学校二年生のときに三浦環に魅了されたことがオペラ歌手志望のキッカケを作った。東洋音楽学校を首席で卒業、ビクターの専属となったが、オペラにかけた夢を捨てることができず三浦環の弟子となってオペラ修行にはげんでいたが、それも戦争でトンザしてしまった。昭和二十年彼女は慰問旅行で知り合った特攻隊小林平八郎という青年将校と恋に落ち情熱のおもむくままに結婚した。だが結婚後四十一日目に平八郎は出撃し再び戻らなかった。戦後はオペラを目東京に声楽研究所を開いている。

小林伸江

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松原操は明治四十四年花園町の生れだが生後まもなく一家が東京に移転したため‶北海道の記憶は全然ない〟という。上野音楽学校卒業後コロムビアから誘われ、大して気乗りしないまま吹き込んだ‶十九の春〟が大当たり、歌手生活に入った。昭和十四年それまでコンビで数々のヒットを飛ばした霧島昇と結婚、昭和二十三年に引退した。

松原操

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そのほか新劇界で娘役としてメキメキ実力をつけてきた俳優座の岩崎加根子は函館生れだが幼時を小樽ですごした。彼女が小学校一年生のときに家族とともに東京に移った。‶二十の扉〟で大活躍した柴田早苗は古宇郡泊村の生まれ生まれて間もなく小樽に移ったがやはり緑小学校一年の一学期で東京に移転した。

小樽の女

北海道新聞

昭35.1.7~1.17連載 より