海運と倉庫 山本厚三

2020年06月05日

 昭和二十四年の暮から翌年にかけて、二人の政治家が相次いで世を去った。板垣順助は二十四年十二月二十日七十三才、山本厚三は二十五年一月八日六十九才で、僅か十九日より隔てていない。この符節を合わせたような死は、二人の政治家がライバルであっただけに一際劇的であった。

 しかし二人の登りつめた人生の頂は、片や自民党参議院議員で運輸交通委員長、片や公職追放令による失意の隠遁生活である。「もう一度花を咲かせてやりたかった」……山本の死を悼む声が多かったのもむべなるかなだ。

 

 山本が敗戦後に投じた進歩党は、戦時中の翼賛政治会―日本政治会のコースをたどったメンバーによって結成されたもの。当初は二七四名の大所帯であったが、パージの旋風で生き残った者は僅か十名。こうして山本の身代りになったのが椎熊三郎である。

 それから四年。二十五年十月には第一次の追放解除が行なわれたが、生存していたとしたならば彼は、再度政界に返り咲こうとしただろうか。その意志や欲望とかかわりなく、新時代の政治は椎熊のような新人の出盧を歓迎したのではないだろうか。

 

 北海道における山本初代の人久右衛門は、陸奥田名部の出。ここから松前福山に渡って米や味噌を商う店を開いたのは、二十六才のときの天保十二年であった。子が無く弟の二十一才になる吉蔵を招いて養嗣子としたが、この二代目が山本家の商権拡張の礎石を彫りあげた人である。彼は店業を固めながら、驥足を焼尻、天売、利尻、礼文にのばして漁場を開いた。そして天恩丸常盤丸八幡丸、永寿丸などの弁財船を仕入れて、後の‶海運の山本〟の序章を編んでいった。さらに明治開花の時代になると、西洋型帆船の自在丸、祖興丸、御風丸、八幡などを買入れて新時代の海を快走したのである。

 

 明治三十年になって家督は養子辰五郎に渡された。ここで‶山本丸〟の舵手は東北人から北陸人に交替することになる。辰五郎は新潟県三島郡の出身で姓は渡辺、二十七年にはすでに小樽に進出していたが、このころ厚三はまだ山国長野県飯田在住の中学生であった。

 三代目久右衛門は漁業と海運業を形影相添う事業として、手固く商権をのばしていったが、三十九年函館、瀬棚。四十年小樽、カラフト。大正三年には小樽、新潟、佐渡の航路を開いた。日露戦争後の南カラフト領有によって、当然小樽は航路のかねめとなる。大正初期ごろのカラフト航路は山本船舶部、日本郵船、大阪商船、そして増毛の本間合名の四者によっておこなわれていたがこれでは‶船頭多くして船山のぼる〟ことになる。そこでカラフト庁長官平岡定太郎が仲介にたって一本化をすすめた。

 

 こうして大正三年三月に日郵を除く三社によって、資本金百万円の北日本汽船株式会社が発足した。このとき厚三は取締役に就いたが、本社は大泊でも実際の運営は南浜町の小樽営業所で行なったので、山本父子の比重は非常に多かったのである。当時の山本船舶部所有船三島丸、敦賀丸、東雲丸、第二近洋丸など。そして九六四㌧の吉辰丸は北日本汽船用として東海岸航路に就航した。厚三はやがて支那、朝鮮にも進出して海運小樽の名声に拍車をかけた。

 海運と倉庫事業は唇歯の関係にある久右衛門は倉庫業にも着目した。明治二十八年十一月には資本金五万円の小樽倉庫株式会社が発足。この三二一六坪の倉庫は、大正十年に東京以北最大の北海道製缶倉庫ができるまで他を圧したが、社長久右衛門。そして時を追って厚三、その弟平沢亮造、広谷敏蔵も取締役に就き、現在の社長は厚三の次男にあたる信爾となっている。

 久右衛門は電気事業にも手をひろげている。明治三十九年設立の北海道電気株式会社社長として、金子元三郎、板谷宮吉、寺田省帰たちと‶電気の樽僑〟の地図を画いたが、四十一年拓銀頭取美濃部俊吉のバックアップによって札幌水力電気株式会社が誕生すると、道電もその傘下に入って彼は取締役となった。

 

 さて名家山本家で初めて政界人となった厚三は、明治十四年五月長野県飯田の平沢家の三男に生れた。二歳下の弟敏蔵は他家と養子縁組をして広谷姓を名乗ったが、小樽では市議をした。その息子の広谷俊二は日本共産党の中央委員をしている。

 

 厚三より九才下の弟亮造は慶応理財科の出。北日本汽船、小樽倉庫、小樽新聞の取締役をつとめたが、代議士厚三の小樽における留守師団長として、選挙参謀井尻静蔵や河田邦太郎、秋山常吉、板谷吉次郎など民政党のうるさ方の潤滑油となった。しかし英名ははせたのはむしろ戦後といってよく、昭和三十三年には北海道文化賞を受賞、三十六年には藍綬褒章を得て、道体育協会名誉会長、道社会教育委員連絡協議会長などの公職が多かったが昨年物故した。

 厚三は明治三十六年二東京高商(現一橋大学)を卒えて、その年八月に山本家に養子入り。三十九年一月には一年志願兵として陸軍三等主計となった。

 彼の経済人としての肩書は多彩できらびやかである。小樽倉庫、北日本汽船を始め、小樽信託、帝国養蜂、大正製麻、大北火災、定鉄、北海道製綿などの発起人や創立後の社長や取締役などに就いた。公職も小樽倉庫組合長、そして大正六年には小樽商業会議所会頭に推された。

 

 実業家厚三と政治家厚三のふたつの顔を併立させてみると、いきおい後者のハイライトによって前者がボケてくるのはいなみえないようだ。衆議院議員八回当選の閲歴こそその顔を形成する最大の細胞となる。ここで私はひとつ質問を提出してみたい。彼は大臣になりえたかどうか、ということである。

 戦後北海道から運輸相の平塚常次郎を皮切りに、南条徳男、篠田弘作、松浦周太郎などが大臣になった。しかし戦前には一人も生み出すことができなかった。これは政治培養土の地味の悪さ、後進性によってもたらすものに他ならない。それでも木下成太郎、東武、中西六三郎などは大臣に擬せられたこともある。

 当選回数からいけば、厚三は大臣就任を不可能としない貫禄がある。しかし彼にはライバル板谷にみる機略性に乏しく腹芸が足らなかった。放胆なところもなく、情と知では情が劣った。政界の優等生必ずも大臣たりえないところに、日本政界の隠微な一性格があるのだ。

 

 それはさておき、彼の政治階梯は区会議員、市会議員、そして金子元三郎のバックアップによって衆議院議員に踊りでた。小樽人の政治意識のボルテージの高さは、時として狂態にまで及んだが、それが明白に政党拮抗の形状をとるにいたったのは小樽港水面埋立をめぐる紛争に終止符をうたれた大正三年。翌年の、金子対寿原重太郎の決戦ではあるまいか。これに勝った金子派政友会の梟将寺田省帰とともに、北海道政史上刮目すべき非公明選挙によって失格した。

 その身代りとして初見参の厚三が、寺田と一戦を交えたのは大正九年五月。一三三二票対一三一三票のきわどい勝利であった。爾来連戦連勝し、昭和十一年には前回最高点の寿原英太郎が惨敗して厚三ゆるがず。十二年には室蘭から小樽にまわった板谷と柏鳳戦を演じてともに当選した。その前、昭和四年七月の浜口内閣では鉄道参与官。党内では民政党院内総務、また六年四月には民政党道支部長となった。順助は後に同じ鉄道参与官となったが、老将木下成太郎が頑張っていて政友会道支部長の椅子は遠かった。

 

 昭和十七年の総選挙は〈政府の手でつくられた翼賛政治体制協議会が政治と軍に迎合する候補者を定数いっぱい推薦した〉(昭和史)いわゆる選挙である。このときの北海道の協議会のメンバーは、安孫子孝次、黒沢酉蔵、岩沢誠、高岡熊吉、岩田政勝など二十二名で、その結果、一区では厚三を始め沢田利吉、安孫子孝次、小谷義雄。二区が松浦周太郎、吉田貞次郎、前田善治、柏岡清勝、三区が大島寅吉、渡辺泰邦、真藤慎太郎、四区が手代木隆吉、深沢吉平、南条徳男、村田要助、星の靖之助。五区が東条貞、南雲正朔、奥野小四郎、黒沢酉蔵。以上二十名が推薦され、柏岡、小谷、村田を除く十七名が当選した。厚三がこのお墨付き選挙の推選に応じたときの心境を、おもんばかることは難しい。

 兎に角人間万事塞翁が馬である。

 

 今小樽港の一角には、小樽倉庫屋上の鯱像汐風をモロにうけて屹然とうそぶいている。

 この城のあるじ現社長信爾は三男四女の子福者の厚三の二子。長兄は三菱銀行勤務中病死して後を継いだ。

 明治四十四年五月生れ。昭和八年小樽高商を出て拓銀に入行、応召三回を経て復員後家業に専念、現在小樽貿易協会会長。商工会議所理事として樽商三代の気概に生きている。

~小樽豪商列伝(27)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より