水戸の志士道銀頭取 添田弼
2020年06月03日
この道をゆけば、右は色内町へ出る角で北海道拓殖銀行、左は堺町の角で三菱銀行支店があり、その五階には小樽商工会議所がある。向こう角の右には小樽郵便局の低い二階建の古色蒼然たる玄関があり、左角に白亜の現代ふうな第一銀行小樽支店がそびえている。その並びに沿って坂をのぼれば為替貯金支局があり日本銀行小樽支店が四隅に塔のある大きな姿でうずくまっている。ここは商業都市小樽の中心地なのだ。
伊藤整は〈幽鬼の町〉で昭和初期の色内町界隈をこのように書いた。‶商業都市小樽の中心地〟とはいささかそっけないが、マスコミ的感覚の発想によると、さしずめ‶北海道のウォール街〟というべきか。色内とは熊路の沢の転化で、その昔はけものみちであったらしいが、時代の波の意匠造りはこの一帯をして錬金術の部落たらしめたようだ。ところで郵便局の後ろ手、現在の海運局のある箇所に北海道銀行があった。淵源をたどると元屯田銀行の北海道商業銀行と、余市銀行が小樽に進出して改称した小樽銀行の合併によって発足した銀行である。明治三十九年から昭和十九年まで、小樽に本店を持つ大銀行は商都小樽の繁栄を象徴して威容を誇った。そしてその創業時代の総帥が添田弼である。
弼という難解、かつ格調のある名から推察されるように彼は士族であった。しかも過剰なまで尊王イデオロギーのメッカ水戸藩の出である。嘉永元年四月藤谷一郎の次男として生れたが後に添田家の養子となった。安政の大獄によって幾多の英才が断罪されたのは彼が八歳のときである。その元凶の井伊大老が水戸の浪士の斬奸によって刺撃されたのは九歳。水戸イズムのアイドル藤田東湖の子小四郎たちが、筑波山で挙兵したのは十三の時。この挙兵が鎮圧されてから藩情は、保守と革新、佐幕と尊王の血で血を洗う内訌にまきこまれ幼児や女中までをも殺傷しあうという人心恂々たる悲惨事に逢着したのであるから弼は好むと好まざるとにかかわらず動乱ッ子として育ったわけだ。
弼は恩師友部忍虚が薨れてから脱藩した。佐幕派の追捕をかすめながら王事に奔走したが、一時師の遺稿〈停雲桜舒嘯〉を離さなかったそして後年出帆して遺族に贈り、師の非命を弔うという情誼の厚さである。
維新後の彼の官途は長い。まず明治七年二地元茨城県庁勤めそして工務省を経て十年鹿児島県に奉じた。西南戦争の時に県令即ち彼の上司として‶敵地〟に乗りこんで来たのが、例の岩村通俊であった。この土佐ッぽは西郷隆盛の遺骸を浄光明寺に埋めて碑を建立した。そのとき流麗な碑詩を草したのが静淵こと弼である。
曰く〈是となし非となすもついに幻空姦と呼び賊と呼ぶもまた英雄 縁あってこの日霊表をしてしるす雨は暗し浄光寺の中〉大西郷の鎮魂歌としてまさしく逸品。貫堂と号して漢詩をよくした岩村の比するところではない。
明治十三年に岩村が県令職を大書記官であった渡辺千秋(後に第三代道長官・宮内相)に譲ると弼は沖縄県勤務。十七年に入って函館県に奉職して一路北上した。二十年三月檜山外一郡長。この時代彼は江差に滞留した頼三樹三郎を偲びその作品集を〈北凕遺珠〉と名付けて上梓したりした。二十三年二月函館区長。二十四年一月室蘭外五郡長。そして同年七月から小樽、忍路、余市、古平、美国、積丹の七郡郡長になった。これはかっての上司渡辺千秋と軌を一にしている。
当時政府は、明治二十一年の市町村制、二十三年の郡制、府県制の三法を柱として、地方自治に対して中央権力のテコ入れをした直後であり上からの地方自治というのが実相であった。従って弼の苦労は多く僅か三万円の公借支払いに窮し、東京の知人を通じて公有物担保によって辛うじて調達したこともある。そして二十五年九月のオコバチ川、勝納川の氾濫、翌年一月の暴風等が続き、オコバチ川の改修、砂崎町から有幌町に至る埋立。港町、手宮の道路改修等なすべき事は山積した。
やがて長官は渡辺から北垣国道に代った。北垣は幕末に平野国臣達と生野で挙兵した草奔の志士で、静処と号して漢詩の造詣が深い。弼の長女島子が北垣の次男に嫁いだのも、往時の閲歴や文墨のよしみで結ばれた縁であろう。
さてここに余市銀行が登場する。これは明治二十七年三月、余市の大漁業家猪股安之丞と林長左衛門が漁業資金融資の目的で十万円の資本金で設立した銀行である。二十八年には小樽に進出したが、支店長が土地投機に失敗して営業上の問題を惹起してしまった。窮した二人は再建のために官途残り少ない弼の出陣を懇望した。
「わしの出る幕ではない。わしのこれからの為すべき事は詠詩三昧じゃ」弼は再三固辞したが、結局たっての懇請もだしがたく頭取を引き受ける事になった。明治二十九年九月のことである。会津藩出で令名の高かった高野源之助等を重役陣に加え同時に増資し、十二月には本店を小樽に移して小樽銀行と改名した。そして初め四朱の配当を実施して滑り出しは好調であった。‶論語で算盤はじく〟渋沢栄一にひそみにならえば‶詩で算盤をはじいた〟異色の頭取であったのだ。
しかし三十二年の区制施行と共に初代の官選区長の人選問題が弼の身辺を騒がす。候補は金子元三郎、渡辺兵四郎、高野源之助、山田吉兵衛、そして弼の五人となったが、結局金子に落ちついた。これ等の人々はいずれも小樽政経界のトップクラスで、商業会議所会頭も山田、渡辺、高野と続き弼は四代目に選ばれた。
明治三十四、五年の不況の波は、小樽をも洗わずにはおられなかった。三十四年には六年前開業の小樽貯蓄銀行が敢えなく閉鎖し、三十五、六年はどの銀行も利益が下った。特に三井と北海銀行は赤字となる深刻な有様であった。三十六年には遂に北海道商業銀行も暗礁に乗りあげてしまったのである。
北商の前身は屯田銀行である。屯田兵十三中隊の積立金十三万円を資本として明治二十四年二創立されたもの。業務は司令官の監督を受け株券所持売買は屯田兵に限られた。重役も司令官が人選する仕組であった。新琴似屯田兵が米価暴落の際、払い戻しの願出を拒否されて十数名が中隊長官舎を襲撃、実弾を放ったという物騒な事件もあったという。その後普通銀行に変り三十一年には小樽に本店を移したが、三十三年二道商銀に改称した。当時の資本金は百万円であった。
三十六年の危機では十一月に役員を改選し、日銀の監督下におかれたが、三十八年の秋ころから道長官園田安賢が重役の園田実徳と、樽銀の弼との間を斡旋して合併をすすめた。二人の園田は共に薩摩藩の出身で、実徳は北炭、函館ドック、北海道セメント函館水電、小樽電灯合資等に参加したときめく大立者である。ところがこの交渉の過程で北商の福井正之相談役が怒り出した。
「百万円の北商を二十五万に切り下げ、五十万円の樽銀を据えおきで合併するとはけしからん。株主の利益を無視するも甚だしい」との言分である。
一部の株主も笛にのって躍り出し、事態は紛糾を重ねた。誠実な弼は福井をよく慰撫し、札幌の元老をかつぎ出したり三十株以上の株主に礼をつくしたりして、曲りなりに合併が成立したのは三十九年五月の事であった。
こうして弼は園田頭取の下で専務取締役となったが、その後の園田の辞任によって頭取となった。このころ人的攻勢を瞥見すると樽銀じだいから引き続き支配人となった小寺芳次郎は美濃大垣藩の出。監査役の倉橋大介は小樽電灯のパイオニアとして知られているが、幕末動乱期に曲折の結果討幕陣営に走った越前藩の出。取締役の高野源之助、長谷川直義は‶叛賊〟の会津藩の出で、いかにも歴史の新しい北海の‶企業人別帳〟らしい。
弼は大正五年五月二十九日、小樽の黄金時代のさなか六十九歳ので歿した。頭取としての彼にはさしたる業績が無い。おおむね篤実な人格が光彩を放っていたようである。そして道銀は数多の中小銀行を吸収して発展していったが、昭和十九年九月の一道府県一行の統制で拓銀と合併、その光栄ある歴史を閉じた。現在の道銀とは縦の系譜によってつながっている訳ではない。
最後に弼の〈小樽八景〉の一駒を紹介したい。これは古き良き日の小樽港の賛歌でもある。
峰巒、海を擁し水、湾をなす
日々に看る輪船幾往還
傑閣、朱欄春笛遠く
万惝烟りはこむ緑波の間
~小樽豪商列伝(26)
脇 哲
月刊おたる
昭和40年新年号~42年7月号連載より
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