ゼネストのチャンピオン 浜名甚五郎

2020年05月26日

 小樽の数多の艀業者のなかに浜名甚五郎と称する異色人物がいた。小樽は大正末期から昭和初期にかけて、左翼労働運動のメッカであったが、昭和二年六月の港湾争議はその規模においては種々の斗争の極付であったとしてよい。この時の中心人物が甚五郎である。……が、語るにはまずその親分である侠客鈴木吉五郎を語ることから始めなければなるまい。

 吉五郎は明治三年から小樽に住みついて、六年には劇場末広座を建立したが、小樽警察署民間岡っ引きでもあり消防頭でもあった。

 その死去は明治二十九年二月二日。三十一年には末広座で〈世の最新最大発明米国理学士エジソンの世界無比活動写真バイタスコープ〉が上映され、二千有余の観客を驚倒せしめたというからこの侠客は遂に活動写真なるものを見ず仕舞であった訳である。

 それはさておき〈北海道史人名辞書〉には〈葬儀に会葬するもの一千余人、小樽未曽有の盛事であった〉とある。一方〈小樽市史〉によれば会葬者三千人著しい県隔があるが、吉五郎が名声嘖々たるものがあった事を示すには変りない。

 ところで彼の死因は心臓マ痺であった。その両腕に当る子分甚五郎と鈴木市次郎は犬猿の仲で、それが親分吉五郎の悩みの種となっていた。某日開陽亭で酒を飲み交わしているうちに二人は激しく口論を始める。親分がとりなしても自説を主張しあって一向に譲ろうとしない。たまり兼ねた親分は「てめえら、俺の忠告を容れねえのならたたっ斬ってやる」と脇差を執るべく表に飛び出したとたん、ばったり倒れて二度と起き上らなかったのである。

 二人の対立は今始まったことではない。幌内炭の輸送で艀業が湧きたっていた明治二十一年の十月。浜名組の人夫が鈴木組用のスコップを無断で使用したということから、百数十人が大乱斗を展開した。重軽傷二十名を出して七名が四カ月から九カ月の刑を受けた事件であったのだ。端的に言えば二人が親分を殺したことになるが、二人を対照すると市次郎は区会議員、商業会議所副会頭等の要職を閲して羽振りが良かったが、本業では甚五郎に軍扇があがる。

 市次郎は岩手県山田町の商人伊助の長男で来樽は明治十五年。そして艀業と土木請負を始めたが、十九年にはその組で黙々と働く、後の北の誉酒造の野口吉次郎の人夫姿があった。

 二十七年には小樽消防組が発足して、吉五郎がその組頭になると市次郎は第二部長。また区制施行以前の町総代人として行政を仕切った。区制に移行する最後の町総代人選挙では、札幌の浅羽靖達が憲政党の落下傘候補として暴力的に小樽に進駐して来たが、甚五郎はその一味野田和三郎を脅迫監禁して警察沙汰を惹起している。なお市次郎は同業者中谷宇吉と共に第一期の区会議員となった。

 しかし商売はさしたる発展もみせず、大正二年四月には新組織の鈴木艀合資会社として、徳田弥曾吉に委ねられてしまった。これは彼の死後の事である。

 一方甚五郎は二代目である。先代は明治二年三月、外房州の漁師の息子として生れた。幼くして荒っぽい気風を身につけたが、その幼名は宮吉。何せ毎年凶漁に明け暮れるので見切をつけ、横浜に出て貨物運送の仕事を始めた。景気上昇の小樽に来たのは、明治十四年、無類の老気骨二代目もまだ十二歳の時である。

 三菱汽船の貨物を扱ったのが関運の緒であったが二十六年三月東京で逝った。二代目甚五郎は事業好況に拍車をかけて、三十四年にはライバル市次郎の事務所に遠からぬ、南浜町四丁目に海産物の店を開いたりした。菜種を始めとし一年二に十五万俵の農産物を積出す盛況であったから、艀渡世だけが身上の甚五郎ではなかったらしい。なお啄木の〈あおじろき頬に泪を光らせて死をば語りき若き商人〉のモデル藤田南洋はこの店の見習社員であった。

 さて小樽に「山甚あり」の名を轟かせたのは、天下の耳目を聳動させた昭和二年のゼネラルストライキである。

 小樽では既に大正七年七月に千名の港湾労働者が五割増額を要求してストライキを決行している。これは労働者側の勝利に終ったムキがあるが、一皮剝けば若桑久吉を組合長とする艀業者の、荷主組合に対する突き上げであったらしい。このころの小樽新聞は〈或一説には艀業者が増率を拒絶せられしため縦来人夫に支給していた手当を廃止暗に煽動行為あり〉と報じている。

 しかし昭和二年の場合は、日本共産党の支配下にあった日本労働組合評議会や、労働農民党等戦斗的な左翼勢力がイニシアチブを採っているだけに、事態は深刻であった。

 過ぐる大正十四年八月には、沖仲仕を主体に会長境一雄の小樽総労働組合(後に合同労組)が結成され、これを中核に労評道地評も発足している。執行委員長が境一雄で鈴木源重、竹内清等が幹部で本部を稲穂町三丁目に置いた。また同じリーダーによって共産党の別動隊労働農民党の道支部連合会が小樽に誕生し、小樽は革新の北の震源地化したのである。

 六月十日。山甚沢名店の定傭夫四十四名のうち三十三名(うち組合員は二十九名)は一人宛十円のベースアップを要求した。これが大争議のプロローグであるが、甚五郎は激怒した。山甚沢名と云えば荷主に対してサービス本位の優良店で通っている。艀はくたびれた船は一切使用せず夜番も立てる。防雨用のシートも用意しておさおさ怠らない。足元を焼こうとした火に触れた老いの一徹の心情は燃えたぎった。平素から、武芸者武田双角某の弟子たる事を自慢にしているだけあって、腕ッ節は、強い。机の下には木刀と目潰し用の銅貨入りの袋を忍ばせて随時振りまわすなど竜虎の勢であった。

 こうして斗争が開始されたが組合側では十六日の幹部会でゼネストを決定した。十八日には陸方仲仕二四〇、自由労働者二三〇.十九日船人夫三二〇、手宮のカネト石炭部、三井大倉等の石炭現場の従業員二五〇倉庫人夫一〇〇、鉄道手宮駅構内作業部の人夫八〇、自由労働者二八〇.二十日には遂に二千名に達し、関連事業体も七十三に及んだのである。

 争議団本部は色内町松坂ビル。しかし斗争激化につれて本部は十九カ所も移動した。拓銀小樽支店に勤めていた小林多喜二は余暇を盗んではセッセとアジビラを書いた。

 労農党から細迫兼光が駆けつければ、札幌の助川貞次郎(札幌市電敷設者)も三、四十名の助っ人をひきつれて甚五郎を援ける。同業者も彼の強引さに辟易しながら、事業の合同まで頭において切り崩しに奔走した。

 しかしこの合同も各人の資力、業蹟に卒差があるし、政争の町小樽は何しろ金融から縁組の関係まで政友、民政の色分けがある位でその実現は絵に画いた餅に等しかった。

 道庁命令航路の弘前丸、千歳丸、北日本汽船伏木丸等は郵便、公用物の積込みが不可能となり、一般の船主も雑穀の出廻り期であるのに関わらず放置されッ放し。船の燃料炭も底をついた。

 甚五郎の家には争議団が三百名も押しかけて警察との間に小競合いがあり、札幌から増員の警察隊が到着したり、在郷軍人も出動して定期船の荷役を授けたりした。

 争議団は争議参加組の主婦大会を開催、小学校授業料全廃、市営無料診療所設置、電灯料値下げ、家賃三割値下げ、市営助産院設置等を決議して、争議には次第に政治的色彩が加味されていったのである。しかし彼等の旗色は次第に悪くなっていった。

 二十三日。石山町の通称キャンデー山に三百名集合。六名の警官がおっとりサーベルで直行した。そして解散を命じて乱斗になり、二人が手宮錦交番に連行された。争議団は交番に投石して警官五名の負傷者が出る。急報によって吉田嘉蔵警部補が三十名の警官を指揮して二十名を検束した。こうした暴動的状況が市民の同情を失い、七月二日には遂に石炭現場の一部が崩れ始めたのである。

 ここに見るに見兼ねた三人の時の氏神がいる。秋山常吉は当時議会議長で民政党員。森正則は衆院選挙出馬を一年後にひかえた民友会の重鎮。大西慎二は塩田回漕店の出の海運業者で、通称私設市長の世話好きの人物であった。元海軍軍人で小樽港内の水上機着水設備を寄付したこともある人物である。

 三人は両者と八回にわたって粘り強く交渉を続けた。秋山と森は愛媛県の出。‶だんだん畑〟の事蹟で明らかな通り粘り強いのが伊予ッ子である。こうして七月六日には正式調印に漕ぎつけることが出来た。とどのつまりは老〇の甚五郎満身創痍ながらよく粘って、どうやら争議団の敗北であった。この未曽有の争議によって、事業主の損害は一日十五万円から二十万円に達したのである。

~小樽豪商列伝(20)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より