小樽新聞の礎 上田重良

2020年05月20日

 昭和十七年十月三十一日。この日道内の各日刊新聞は一本化し北海道新聞の旗の下に結集した。そして‶紙の弾丸〟化の至上命令に応えることになったのである。

 一六七二五号を以てその歴史に終止符を刻んだ小樽新聞は同日の終刊の辞で〈わが社五十年の歴史は、新聞永劫の紙令に考ふれば、必ずしも永しとしないが、幾多の思い出は読者と共に尽きないものがあり、懐かしき語り草の数々は尠しとしない…〉と低徊し、一転して聖戦の一資となすの決意を表明している。

 この時点での発行部数九万部ライバル北海タイムスの二十万部には比較すべくもない。

 しかし道新の中核となったタイムスは、明治三十二年に北海道毎日、北門新報、北海時事の三社の合体によって発足したものであるが、その中枢の毎日は小樽の山田吉兵衛の投資によって生まれたものである。また北門も小樽の金子元三郎の資本によって創刊されている。樽新はこのようにマスコミ培養土の豊饒な小樽の地元紙として、よくタイムスに対抗し日本の地方雄紙としての貫禄を誇ったことは、小樽人にとってはせめてもの慰めであった。

 樽新五十年の歴代の首脳は上田重良、その妻寿久、そして地崎宇三郎となる。その企業の礎を創り育んだのは重良であった。明治三十二年発行〈小樽港史〉の広告欄には企業イメージの文句として〈北海道唯一の実業大新聞〉と記ったが、また他からは〈北海タイムスには慨して東武型の官僚式風が漲り、小樽新聞社には上田式商人型が流れて〉(北海道の新聞と新聞人)と評されたことがある。

 たしかに樽新は経済記事・実業論汐を重視し記者の中には角帯雪駄姿の手代あがりの者さえいた。憂国慨世の気焔を排して即物性に則ったのは、いかにも北海道の大阪といわれた小樽の新聞らしい。現在の日本経済新聞の長万直次氏が小樽出身である事と、符節を同じくすると云っても万更虚言ではない。しかし重良は歴とした士族であった。しかも維新後‶白河の関外一山一文〟の嘲鳥を甘受しなければならなかった奥州南部藩の出である。

 文久二年十月生まれ。父は百石取の代官。さらぬだに赤字続きの貧乏藩だけに維新後の窮乏はじん常ではなかった。明治十七年に東京専門学校即ち早大の前身に入学。‶学若シ成ナラズンバ死ストモ帰ラズ〟の青春である。

 同校は下野して改進党を組拡した大隅重信が建学したので、未来の在野論客の梁山泊たる面影があった。このころ重良の父は部長職を辞する一年程前で家計は苦しく、学費を捻出すべく内職原稿を書いたのが彼のそもそもの操觚界への進出となったのだ。二十年に稲門を出て筆一本の生活に踏切ったがその彼を買ったのは改進党の領袖矢野文雄であった。

 彼は郵便報知(後の報知)の代表者で、部下には犬養健、尾崎行雄等錚々たる気鋭論客が犇めいていたが、明治二十二年に矢野の生地大分に改進党大分新聞が設立されるや、二十六才の重良を主筆に推した。ちなみにこのころ札幌で北海道毎日新聞を主宰していた阿部宇之八は二十七歳、また後に山口喜一が北海道タイムスの主筆となったのも二十七歳。新潟新聞主筆の尾崎行雄は二十三歳。松江日報主筆となった藤原銀次郎も二十三才明治日本の筆と若さと清新さに刮目したい。

 ところで重良は二十三年になってかって郵便報知に在社していたことのある阿部を頼って一路北上し北海道毎日に入社した。帝国議会開催を目睫にしての熱狂的な政論紙に辟易したのであろうか。それとも矢野が官界入りしたからであろうか。

 札幌に腰を据えた重良は雲萍楽天等の筆名で書きまくったが二十六年五月に至って阿部は阿由葉宗三郎をして月刊誌北海道民灯を発行せしめた。編集長が重良で十一月から週二回のタブロイド判四頁新聞となった。

 このころの小樽に眼を移すと新聞らしい新聞は全く無い。北門新報は既に札幌に進出して毎日と丁々発止の譜論戦を交わしているのである。ある日阿部は重良を招いた。「小樽は小樽として今後益々繁栄を極める事必定です。どうかね。あんたはひとつ小樽で民灯をやらんかね」

 重良がこれを聞いて小樽に歩を進めたのは、翌二十七年六月のことである。小樽の山田吉兵衛、渡辺兵四郎、高橋直治の三人から百円宛の資本金を得て、千円の資本として改題小樽新聞を発行したのは十一月十二日。主筆は札幌農学校学閥排撃論や屯田兵制改革論等民灯を賑わした平野文安。営業長が道毎日の会計係であった矢上以久三郎で発足当時は一着の紋付羽織りを共用して対人との体裁を保ったことさえあった。

 やがて牛歩ながら経営は燭光を見出し、重良は阿部から一切の権利を譲り受けた。

 二十八、二十九、三十一年と矢次早に紙面の刷新を断行、三十二年には待望の六頁建に漕ぎつけることが出来たのである。二三八一戸を嘗めつくした稀代の大火では類焼の憂目をみたが、四十年九月には新屋、新工場を建立して最早確固たる経営基盤を樹立していたものとみてよい。なおこの十月には山県勇三郎の資本白石義郎の経営による小樽日報も創刊され、啄木が月給二十円で入社している。歴史に‶もしも〟という仮定法を採用するのは邪道かもしれないが、啄木と重良は岩手県人という共通がある。郷党のよしみで啄木若し樽新に入社したなら……いや、これは本編の埒外である。

 さて、北海タイムスの首脳の多くは政友会系である。一方樽新には金子元三郎や山本厚三等憲政党人の資金の援助があったから、そのカラーは憲政党と目されていたようだ。しかし重良は新聞の政派超越を信条としていた。札幌支店長であった佐々木鉄之助が寿都の漁場の親方佐藤営右衛門の衆院選挙立起を応援したので退職を命じたほど厳正な面もある。平生部下を可愛がって酒宴を設け、ズブ六に酩酊して興の赴くままに徳利を床柱に打ちつけて喜ぶという反面もあった。それが‶爤瓶〟の渾名のいわれである。

 大正二年九月の二十周年記念号にはルビ付ポイント活字を使用、タイムスの夕刊発行の裏をかいて同日から夕刊を発行。かと思えばタイムスが日本電報通信から内外ニュースの供給を得るや、すかさず帝国通信と契約する。上田一家の追いつき追いこせの熱気は社内に充溢し、札幌何するものぞ樽っ子の急霰の拍手を受けた。

 ところが大正四年二月。父の三回忌の帰途の在京中感冒で倒れ日赤病院に入院した。そしてあっ気なく逝いた。五月のことである。

 二月十四日に量徳寺で開かれた会葬には、大隈重信、高田早苗、板垣退助等貴殿大官の弔辞も多く、すぐれた新聞経営者への哀惜は体裁ではなかった。とにかく起伏の激しい新聞界で、北海道毎日の別動隊にしか過ぎなかったものを、地方紙有数の雄紙までに育てあげた重良の手腕は並ではない。青地農は〈ライバル物語〉で新聞こそ‶企業中の企業〟と述べているがこれは決して逆説ではない。編集と営業の平衡感覚をいかに保ったか……これが新聞経営の最も難しい眼目であるからだ。それを全うした重良は、当務官の保護を穿っていた道毎日の阿部宇之八よりも、悪条件から発足した点力兩を高く評価してよい。

 ところが未亡人寿久が社主になると、譜代の重良である矢上と平野の角遂が次第に露骨となって社内には悪気流が澱漫し始めた。矢上の策謀によって社会部長の加藤柳氏と木村営業部長が家の子郎党を引き連れて連袂脱社し、花園町の錦座で気勢をあげた。そして柳三郎の兄昇太郎主宰の小樽商業新報を牙城として、大正六年四月新小樽を発行したのである結局催々三カ月で空中分解したが、深傷を負った樽新はかって広告量がタイムスを凌駕し、発行部数もほぼ同数にまで達したにもかかわらず大正末には遂に四万部まで転落してしまった。

 分裂後株式会社化し寿久社長女婿の坂牛直太郎、そして嘉納虎太郎(柔道嘉納治五郎甥)等が取締役に就いたが、後に山本厚三の勢力が侵透し重良色が薄れるに伴って、一時屏息していた矢上が専務になったりした。また坂牛が他の重役と衝突して退社したり、行動を共にした桜田武治が小樽毎日新聞をはっこうして〈樽新騒動記〉で内情を暴露したこともあった。重良亡き後の樽新は小爆発が絶えなかった。王子製紙にいじくりまわされたり・社員の給料を一・五割乃至二割引き下げざるを得ない破目の陥ったり苦難の道は遠かった。

 ここで怪物地崎宇三郎が登場する。立身出世伝の亀鑑ともいうべき先代が死んで、二代目を襲名したばかりの宇三郎が取締役に就いたのは昭和十二年八月である。十三年十月に社長となると、樽新経営株式会社と称する第二会社を設立して経営の合理化を計った。釧路新聞や網走新聞等を系列に収めて道北に手をのばし、またオールトピックスや北方農業を発刊、土建屋宇三郎のブルトーザーはタイムスを脅かした。一方間宮海峡埋立論で世人を唖然とさせたりした。

 十七年三月には読売新聞から資本二分の一を導入して提携を計り、題字下に読売新聞姉妹紙と銘うった。こういう積極政策が功を奏して部数は飛躍を続けたのである。しかし読売の資本導入を口実にしての抵抗も虚しく宇三郎は一県一紙の錦の御旗のもりに屈状してしまったのであった。

~小樽豪商列伝(17)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より

小樽新聞社全景(東宮殿下行啓記念北海道写真帖明治44年発行より)