道会の名物男寿原重太郎
2020年05月13日
諷刺諧謔時に凄い啖呵もある。その数字を駆使して攻撃の手を押へ、必殺の言を吐いてゐる。斯んなの仲々いないのであるが、彼が演壇から罵倒しても反対は一向に平気だ。弥次るものさへないのである。肥満倭小それが額に眼鏡をあげて延棒のやうに単調な濁声が飛び出したが最後大変な速さで飛ぶのである。映画によく汽車の走る処があるがあの通りである。『止める時が来たら辞めるだろう』と思ふから腹が立たないのだ。本人は夢中になって折々ズボンのポケットからタオルを出して汗を拭く。東京高商第一回の卒業生で道会議員中での教養ある紳士であるが誠に風采があがらない。それが金玉の演説も笑って聞かれてしまふ。彼は演説を始めると人がなんといってゐるやうが一向に気がつかない。汗だくになって一席弁じて終へばよい訳である。最も彼れの特徴とする処は演説もさることながら宴会での義太夫である。この義太夫たるや天下稀なるものの随一で、聞く者驚かざるものはなくそれが腹をかかへて笑はせられる。心中物であっても如何なる大悲劇でも、彼れの熱烈なる語りくちと全身躍動の所作によって大悲劇が俄然喜劇に転換してしまふのだ。寿原式義太夫はその先を為すものなく、その後継ぐものなき国法的存在であるだろう。
長目の引例になった。これは小樽の北門日報の札幌支店長であった上畠彦蔵の〈道政七十年〉のほとこまである。まさに重太郎の面目躍如たるものがある。
甥英太郎は市議、衆議そして小樽市長と、さしたる紆余もなく順風に帆をはらませた政界生活を続けたが、一方重太郎はその政治的興奮度の高さに比して‶眼高手低〟に堕した感がある。
道議選挙では最初は落選、二回目、三回目は無競争当選。四回目はビリで当選。そして衆議選挙では落選している。しかし強心臓の彼はおめず臆せず天衣無縫に暴れまわり、道議予算委員長の重責にも就いた。また区議時代は政友系のチャンピオンとして、公有水面埋立問題では同系の寺田省帰、小町谷純、磯野進、篠田治七などと共に大車輪の活躍をし、その主張である運河式を貫徹している。
こうみると重太郎のふたつの顔のうち、政治家としての顔にあてられるスポットライトの方が眩ゆいようであるが、経済人としての顔もまた生彩があった。今日の北洋相互銀行の中興の祖は、英太郎よりむしろ‶無尽魔〟呼ばわりされた重太郎というべきではないだろうか。
東京高商に辛うじて入学した彼も、本科四十名の在学生のうち十六番目の成績であったからマアマアといったところ。しかし所詮山師根性の旺盛なこの男は、三井物産が売りに出した北炭株に手をつけて一敗地にまみれ、小樽にやって来た。そして弥平次、猪之吉を援けて寿原家の事業興隆に精進することになる。
幌向原野五百万坪の払い下げをもって、加賀藩出身有志によって創立された加越能開耕株式会社の支配人が重太郎の仕事。気負って新商法にのっとった帳簿方式を採用して当ったが僅か一年で空中分解。しかし重太郎は明治四十年まで監査役をつとめた。この農場は今日寿原農場として外吉の手に委ねられている。
重太郎は明治四十年まで兄の家業を援け、和帳簿を掛引洋数字に改めたり扱い品に舶来品を大巾に取り入れるなど、大胆な商いの方向をたどった。明治四十年に佐々木静二社長の小樽市場株式会社発足。このころ小樽は全道商圏の過半を収め、日銀の出張所は凾館を蹴落として支店に昇格。また高商の設立も決定するなど啄木をして小樽商人の鼻息の荒さを〈声の荒さ〉と歌わせた有様である。
この小樽市場は資本金二十五万円。三十九才の重太郎は専務として采配をふるった。
後に鮮魚を分離し稲穂町で果実、蔬菜、食料品などを扱ったが、大正十二年に重太郎が掌中に収め、昭和五年に至って社長重太郎、監査役九郎、取締役英太郎の寿原食品株式会社となり今日に及んでいる。
重太郎が後半の人生で最も心血を注いだのは無尽会社である。北海道無尽が創立されたのは大正六年。そして翌年には小樽無尽と改称された。その時社長の柿本作之助は、政治工作を考慮して当時政友会に属して派手な動きを見せていた重太郎の出馬を要請した。大正十年に英太郎が社長、そして重太郎が常務、となったが、その際の負債は実に六十万円。重太郎は生得のエネルギーを傾注して再建に奔走したのである。
いつも契約書を懐中に秘めて人に会うと開口一番勧誘をしたのでいつとはなしに‶無尽魔〟と呼ばれた。
歌詠み北海道長官佐上信一は
道議重太郎を
堂々と意見を吐いて演壇で
エビス顔なる
小樽びとかな
と歌ったが、そのエビス顔の小男は
庶民のなりはひ
安くあれかしと
祈る心ぞ無尽報国
と、道歌息のくさい三十一文字を詠んだりした。
昭和七年、英太郎が衆議院議員になると社長は重太郎に代る。そして十五年北海道産業無尽。十九年二北日本、拓殖、東和、日の出の各微塵会社を合併して北洋無尽。そして二十四年株式会社北洋相互銀行。バトンは九郎に渡された。
重太郎の稚気満々たる行状を物語るエピソードは多い。明治三十年といえば花園町は未だ草木茫々たる野原であったが、彼は一時間六十銭の借賃を払って当時では珍しかった自転車乗りに憂身をやつした。今でいえばレンタカーのようなものである。何しろ四尺八寸の短軀。口さがない連中は『アメリカの子供用の自転車がいいのさ』と陰口をたたいた。本人は大真面目でも傍から見ればユーモラスだというのが彼の人とらしい。
ここで政治家重太郎を素描しよう。明治三十二年十二月小樽第一期の区会議員。その五カ月前、彼は後に政敵となった金子元三郎に引張り出されて、入舟町天上寺で千名の客を前に北炭による埋立反対の大演説をぶった。
その長広告は上畠彦蔵の綴る〈人が何をいってゐようが一向に気がつかない〉かどうかは判らない。三十三年商業会議所議員、そして、三十四年の北海道初の道議選挙では上川から出馬した。
時の衆院選挙で高橋直治と対決している高野源之助をかついでいた彼は、旭川の富山県人のバックアップで腰をあげたが、旭川に到着すると、第一楼の主人を筆頭に数十名がキラ星の如くで迎えて、
強心臓の彼もたじたじとなった。宴会に出席するとよるもさわるも買収戦術の話題ばかり。勤倹候補高橋の罵倒に狂奔していた矢先、重太郎は尻の辺りがムヅムヅした。
ふたを開けて七十九票で落選。そして大正三年十二月、師団増設案がもめて国会が解散すると小樽の革新クラブ金子元三郎を推した。一方公正会は藤山要吉に拒絶されて重太郎をかついだ。
時の道長官西久保弘道は、政友一色の北海道を紛争するために札幌の料亭いく代をアジトにして未曽有の選挙干渉を行ったが、それがあってかどうか、重太郎は敢えなく敗北した。
西久保は功認められて警視庁総監に栄転、‶鬼の西久保涙は持たず、暗い闇夜の花が泣く〟と、私娼撲滅で男をあげたのである。
次に大正九年八月。小樽では経済恐慌のさなかとあって大者が道議選に臨まず、重太郎は板谷吉次郎と共に無競争で当選した。悪路とならんで名物と云われた選挙狂いの小樽では空前絶後の低調ぶりであった。
大正十一年八月も無競争で憲政派の井尻静蔵、秋山常吉と当選。ところが昭和三年八月には定員三名のところ六名が出馬した。
この時。戸井。合田などの新得人は問題にならず、再出馬の重太郎と秋山、そして新人の夏堀蓼原が中原に鹿を遂って、結局秋山が三千四百九十七票、同じ憲政派の夏堀悌二郎が三千三百八十五票。そしてわが重太郎は三千三百護五十四票と、票を殆ど三分した結果になったのである。
この時重太郎は六十歳。当時の北海タイムスの番付で、彼は前頭三枚目の高齢議員。そして夏堀は三十四歳で関脇の若手議員に格付けされた。
〈北海道議会史〉では重太郎を道会の名物男と記した。云い得て、妙であるこのほどさようにユニークな存在であったのだ。
終始陽性であったかれは多くの人から愛された。しかし経済人としての彼は気骨稜々たる辣腕家であったのだ。
~小樽豪商列伝(14)
脇 哲
月刊おたる
昭和40年新年号~42年7月号連載より
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