‶寿原財閥‶の始祖弥平司

2020年05月09日

 

 今日ではその言葉の持つイメージはいささか旧踏に属するが世にいう‶財閥〟という呼称の該当者を北海道に求めることになると、現実にはなくてもやはり小樽の寿原、板谷、函館の相馬の御三家あたりが挙げられるのではないだろうか。

 たしかに私達は今日でも抵抗感もなく寿原財閥と呼んだりする。しかもこれは板谷や相馬の場合のような過去感がなく非常にリアリティが濃密なようだ。これは寿原一統が明治、大正、昭和の三代にまたがってその命脈を保ち続けてきたばかりでなく、むしろ末広がり式の上昇体制をしめしてきているからでここに板谷や相馬の土地、金融のように時代相の転変に制約を受けやすい道をたどらなかった、父祖代々の手固さと才覚がもたらした大いなる収穫の結果がみられる。

 小樽経済の地盤沈下は『今更何も…』の感がなくもないが、戦前に既に沈下どころか完璧に霧散し果ててしまった豪商富豪の数は決してすくなくない。その敗北の根姻は勿論さまざまのケースによって異なるが、おおむね投機的商道への無軌道なつっこみがあり、そして政治という魔神にとりつかれた報いがある。しかも投機と政治に踏みいる心理基盤は同次元のものである。

 その投機的商道に眩惑されなかったスハラ一統にも、かって小樽を席捲しさった政治熱から免かれかなかった者がいた。

 区会議員から道会議員になった重太郎。市会議員、衆議院議員、小樽市長のコースをたどった英太郎。重太郎は政治家としてはなかなか派手な存在だったし、英太郎も衆院選挙では落選したこともあって起伏に富んでいたが、二人共家産までかたむけて没頭するほどの愚者ではなかった。所詮は弥平司の弟猪之吉が編んだ十一畳の家訓≪我レハ商ヲ以テ本業≫とする利発な人物であった。

 小樽に寿原の土台を樹立したのは弥平司である。しかし彼は小樽を墳墓の地と定めずバトンをその弟猪之吉と重太郎に渡した。弥平司の家は代々菅笠売りで、特に父は明治維新の際の会津戦争の時に、鎧兜に身を固めて戦場のなかを行商したという卓抜したアイデアマンであった。一方弥平司が義弟の生家砂土居家は士族で、代々学問にたけた毛なみのよい家統である。こうして寿原一統は抜け目のない商才と、見識髙い̪士魂が巧みにミックスされて、弥平司の養子外吉と英太郎の養子九郎が今日の隆盛を築きあげたのである。

 重太郎は東京高商(英太郎も同校卒)を卒えてからイタリヤ語協会の選抜によって、横浜のイタリヤ商館の書記となった。また小樽高商出の九郎はフランスの札幌地域駐在名誉領事、小樽の日仏親睦団体アレアンスフランセーゼ会長。そして九郎の実父は郷土の石川県大聖寺では率先してちょんまげをきり、英語を学んで洋行を企てたという‶文明開化〟の第一人者の士族であったという。

 ことほどさように洋風の洗練された商い気質が陰に陽に密着しているのが、この寿原一統である。

 小樽名物の火事が‶寿原財閥をつくった……といえば『風が吹けば桶屋が儲かる』のコジツケの習いのようだが、これは一理がないわけではない。弥平司が小樽の土を踏んだのは明治十四年五月二十三日の大火がきっかけであった。この日芝居町の雑貨屋日野屋から発火した火は新地町に移り、たちまち当時の繁華街金曇町に及んだ。かくて焼失は五百八十五戸。明治天皇行幸三カ月前の不慮の災害であった。

 弥平司は富山県礪波郡福岡の産である。富山平野の西部の中心地。小矢部川をさかのぼると北陸の要港伏木港があって、以北の諸港、新潟、酒田、秋田伝いに小樽とつながっている。

 それまで各地にわたってひろく行商を続けていた彼が、秋田で小樽の大火を知ったのは七月末であった。当然‶クチコミ〟によるものだ。

 (火事のあとはに売れるもの…そうだァ‼瀬戸物だ)流石に読みの深い越中男だけあった。彼は急遽福岡に帰ると瀬戸物を仕入れて小樽にむかった。そして有幌町でバラックの小屋をたてると山形県鶴岡出の男と共同で瀬戸物を売った。これが寿原商店の原型といってよい。

 有幌町は昔は内保政五郎の漁家と船倉、そしてヤマサ堺の三棟しかなかった辺陬の地であったが、大火後二ヵ月の七月に札幌と手宮を通ずる幌内鉄道が開通し、銭函、手宮間に乗合馬車が走り、このためニシン屋岬と呼ばれていた有幌東の岬が切り崩されて道が貫かれ信香と街続きになった。そして火事で焼け出された人がこの道沿いに定着するようになったので、弥平司にとってはタイミングがよかったのだ。

 彼は十六年の秋に至って独立したが、もともと主人あっての彼、従僕としての彼ではなかったので、多くの一代目のように‶朝に星をいだきて〟式の辛苦の精進でもなかったようだ。当時の小樽の名妓糸鳳軒糸八のもとへ義太夫を習いに通って芸人並みの芸を身につけたり、将棋も円熟の息に入ったりしてなかなかの粋人であった。細面のきりりとした好男子で、北陸人特有の重々しい翳りはみられなかった人であったのだ。とにかく学費を捻出して弟の重太郎を専門学校に通わす余裕もあった。

 しかし明治十八年には有幌の店、二十何には入舟町の店と続けて大火類焼の憂目をみたし、また一人娘の病気その婿の離別など内患も多かったのである。やがて小樽での土台がほぼできあがると郷里に帰ったが、その土台を引き継いだのが二人の弟そして同郷の酒井仁四郎四男外吉を養子として迎えた。

 弥平司は株に関心を持ち、ニューヨーク生命保険の配当付に共鳴して多額の契約をしたりしてここでも寿原家通有のバタ臭さの片鱗がうかがわれるが、猪之吉の没年におくれる四年後の大正十一年九月、六十四才で鬼籍に入った。この時寿原三兄弟最後の弟重太郎は五十三才。そして英太郎は四十才である。

(次回は‶彌併司を継ぐひとびと〟)

 

私が本稿を書き始めてから一年になる。バックナンバーをひろげてみると、板谷宮吉、高橋直治、京坂与三太郎、山県勇三郎、金子元三郎(二回)渡辺兵四郎(二回)野口吉次郎、同喜一郎、藤山要吉…。一人の人間の斗魂の歴史を僅かの枚数に凝結させてしまうことは、まことにおおそれた所業だが、ともかくその人間像と足跡のホンの素描を書いてきた。

 私はもともとテレビ・ラジオドラマなどの劇作を続けてきたので、評伝、伝記、郷土史といった分野では全くの一年生である。ところが一昨年私の勤務先のHBCで伝記シリーズ〈正・続北方のパイオニア〉を出版した。その編集にあたった私が‶錦上に花を添える〟ために正篇〈明治北海道企業人脈〉を書いた。正篇は明治の北海道の政治家、教育者、文化人、続篇は明治、大正、昭和三代の北海道の実業人をとりあげたいわゆる‶人国記〟である。

 この執筆のため様々の資料を入手する事が出来たが一人の人間がひとつの時代にどのように生きたか…その生々流転は私の気持をゆすぶらずにはおられなかった。

 爾今一年半。私の‶錦上の花〟は風雨はもちろん朝露にさえしぼむ根なし花の憾みがあったが、本稿を生みそして処女著書〈明治北海道人物誌〟を生んだ。また本年度から〈北海道人物産業史〉を連載することになった。いや、大層な大見得をきったようだ。これは三十代のモノ書きの言うことではない。ただ私の本稿執筆の動機の一端を述べたいこころの筆のすべりである。

 私の先祖は近江商人で六代前江差に移り、漁場を開いてニシンでうるおった組だ。松前藩に運上金を収めてかあるいは冥加金を徴せられてか、初代近江屋新助の子が士分となり脇新左衛門元成という士商両棲のサムライが誕生したという。また外曾祖父は磐城国(福島県)平の士族で、戊辰戦役に敗れ明治九年に函館に飛び餅屋、行商人となった。そして十勝川のサケで俄か成金になり釧路で北海道最初のパルプ製紙を手がけたりしたが、一代で消滅した。本稿に書いた山県勇三郎とは知己であったらしい。

 こういうわけで、‶吾もまた豪商列伝のヒーローの末裔〟といった感慨はないわけでもないが、生憎末子に生れているので家系をたどり、それと現在のしごとと結合してみるような切実感は余りない。さて、今年は寿原一族をトップに百一年目を迎えた小樽の商神の使徒たちをせっせと書くつもりです。‶ご一報下されば直ちに参上〟といった身ではないが、伝え話、史料をお待ちしております。本誌の編集部なり左記にお知らせいただければ、合掌の喜びです。

 

~小樽豪商列伝(12)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より