梟商 山県勇三郎

2020年04月21日

 石川啄木が小樽日報の記者であったことは人々に膾炙しているが、その新聞社は金主の山県勇三郎が債鬼の追求から逃れるためにカモフラージュとしてつくりあげたことは余り知られていない。思えば啄木こそいい災難だったがこの勇三郎は樽商ではない。根拠地は根室、次いで東京に進出しその到達点は南米というスケールの広い男である。

 彼の小樽との結節点を探すと明治二十年代の小樽第二期埋立の出願者の一人になったことである。これには北炭、三井物産、北海道鉱業倶楽部といった大手筋、中谷宇吉、稲積豊次郎など地元の豪商。それに頭山満傘下の九州政治団体も名乗りをあげて激烈な競走を捲きおこした。時の長官安場保和が、その利権を特定の人間に与えようとして追及されるという汚吏であることを露呈したが、勇三郎もその出願者の一人になっている。

 したがって勇三郎は小樽とは決して無縁ではないのだが、だからといって豪商列伝の登場の機会を与える人物でもない。しかし私の考えでは、百年の北海道の歴史で彼くらい奔放不羈に暴れ廻った気宇広大なるゴリラ的仕事師はまずいないと思っている。梟商、大山師、快男児、借金王、北海道の岩崎弥太郎…呼ばわりかたは如何ようにでもなる男であるが、その割に彼の人物、業績についての記録に乏しい。そこで私はこの機会に勇三郎を人物史の花道に登場させてみたいのだ。

 すると勇三郎は六尺近い巨体をゆすぶって哄笑氏大声で喋るだろう。

 「小樽商人にァ随分サイズのデカイ人がいたが、俺にくらべればまァ八㍉か十六㍉じゃろう」

 勇三郎は九州平戸藩藩士中村衛八の三男に生まれた。平戸は昔は海賊の拠点であり密貿易の基地。そして日本で初めての西洋貿易港である。かくれキリシタンとじゃがたら文で南蛮紅毛の夢が横濫している町。この伝統は後年の勇三郎の行動にある影響を与えずにはおかなかったに違いない。

 西南戦争の時に十八才。心酔する西郷南州の挙兵に加わろうとして取り抑えられている。

 二十二才の時上京、陸士に、相当する学校を受験して落第。この時神田の安下宿に同宿していた長期出張の根室小学校教師柏谷亀五郎の口から、北海道の不定型の魅力を知って渡道を決意した。榎本武揚に師事して海外移民の実態を知り何はともあれ北へ…と発起したという説もあるがとにかく開拓使の御用船玄武丸で渡航した。

 懐中に一銭もなく船底にしのびこんだところ船員に発見されて袋だたき。その時札幌農学校出で後に世界的地理学者となった志賀重昂(明治三十九年の小樽での樺太国境策定国際会議に列席している)が救い。海外雄飛の策を説いて勇三郎を励ました。

 また勇三郎は殴られながらいつかはこの船を俺のものにしてやる、と歯がみしたが後日成功した彼はそれを実現した。官から払い下げてもらい根室、東京間の海運に用いたのである。

 しかしこの立志伝が実伝であるかはさだかでない。ツヴァイク流にいう〈人生の星の輝く時〉は、勇三郎のような天下併呑型の器ともなればとかく粉飾が多くなり日々のとるに足りない出来事でする美談佳話になり勝ちなのである。だが、彼を混沌未分の北海道の商戦の最前線に導いてくれた名伯楽は柳田藤吉であることには間違いがない。

 ひとまず凾館に腰をすえた勇三郎はある雑貨商に住み込み、やがて生得の快弁と押しで近所の小金の老婆から巧みに金を借り餅屋を開いた。偶然たち寄ったのが藤吉。彼は筋骨雄偉の若者がなんで餅屋風情に…という訳で声をかけたがこの青年に惚れこんでしまった。

 藤吉は幕末期、凾館開港後の外国貿易の先鞭をつけた人。支那に初めて昆布を輸出したり、関東に初めてイワシ粕を移出している。外国資本と斗って凾館で製氷事業をおこした人だ。そして根室港湾埋立の功労者、北海道、千島漁業開発の先駆者。明治三十七年に代議士。とにかく眼に一丁字もないとはいえ機略縦横の傑商である。

 根室で藤吉の番頭格になった勇三郎は、生得の豪放な器略を駆使して主家の発展に拍車をかけた。東京、大坂の市場に北海道の柳田の名前を浸透させるために一流の傘屋に大量の商号入りの傘を注文して手付金だけ渡す。

 期日になっても引取らない。傘屋では泣き寝入りするしか途がないが俄雨でも降ると仕方なしに往来でたたき売りをする。これでいやが応でも柳田の名が宣伝されるわけである。

 支那商人と何十万石かの昆布を取引きする際、何戸かの倉庫入口附近に昆布を積重ねておき」うちではこの通り何時でも大量の昆布を用意しているンじゃ「とホラを吹く。契約してから積取船の入港の時まで産地から買占めておくのだ。凾館の台場を借りて倉庫を建て商号を白地に抜いておくから、出入りの船から燈台が見えなくても柳田の文字が見えるという算段した。

 ハッタリはまだある。外人を根室に連れてきて沖の国後島の爺爺山を指し、あれも柳田の私有地だと自慢して信用させ、それを抵当にして、何万円かをひきずりだすという権謀ぶりである。

 やがて弟妹を呼びよせて主として定三郎と辰五郎で海産物の仲買人をした。国後の不漁続きのニシン場を買ったが奇蹟的に大漁になって大もうけ。これを資本にして三隻の船を買い海運に乗りだした。また日露戦争の前夜、三百㌧の凾館丸で古賀公平という部下を主任にしてベーリング海やアラスカ近海でアザラシの密漁までしたあたり、海賊の根城だった平戸男児の血のなせる業かもしれない。

 一方陸にも手をのばした。経営に失敗した根室和屯田兵村の二千町歩の土地を払い下げてもらい、米国式洋農法をとり入れたり、英国からヨークシャー種牛を輸入して乳牛改善に力を入れ別また太平洋炭の先駆となったた保炭鉱(明治二十九年、筆者の曾祖父江政敏から四万円で買いあげた)や歌志内炭鉱の前身(後に小樽稲穂町に本社を置く文珠炭鉱株式会社に買収された)更に満州撫山まで炭鉱を所有し恵山岬で硫黄、秋田県で銅山、栃木県で金山、釧路で電燈台、北見で輸出用のマッチ軸工場をつくるという多角経営ぶりである。

 こうして最盛期には本社を東京京橋明石町に移し、支店は小樽、根室、凾館、釧路、室蘭、そして横浜、神戸、大阪、門司、大連、秦皇島まで及び、ここに山県王国が生まれたのである。

 随分エゲツないこともしている。持船が横浜や、神戸辺りから出港すると、積んでもいない荷為替を組んで凾館や小樽で割引し、ツジツマをあわせればありもしない荷から現ナマがザクザク生まれるという仕組である。

 さる顕官を自家薬籠のものにするために、熱海に豪華な別荘を建設してそっくり贈呈したりした。

 彼には一怪物が黒幕として勢威をふるっていた。明治中期のイカサマ四天王といえば幸徳秋水達の大逆事件のスパイ先導役になった穏田行者、蟇仙人、杉山茂丸、アウンバラバということになる。その怪僧アウンバラバが勇三郎の軍師で由来同郷の者である。筑后柳川藩の漢学者瑞山のでしだったのを後に新興宗教をデッチあげ、東京新富町の陋屋でくすぶっていたのを勇三郎がひっぱりだした。

 目白の高台に金をあかした御殿を建ててから、アウンバラバラは本尊と称して天下を睥睨し財界、政界を手玉にとるようになったのである。勇三郎は家族や従業員をこのインチキ宗教に入信させ、そしておしみない〇金をつづけた。あくどくもうけてから宗門のパトロンとなる。この中国人の習慣が彼のものになったがこの宗教は邪教であった。

 このあたり彼の非合理的経営感覚のアキレス腱が露呈しているのだが、日露戦争後のパニックは遂に彼の勇み足をすくった。

 その負債は、実に三百五十五万円。とばっちりをくって自殺した者もある。

 勇三郎はせまい日本からの脱出を考えて部下をブラジルに派遣した。過ぎし日の榎本や志賀の言論が、彼の爵々たる心情をゆさぶった。だがむらがる債鬼を慰留しなければならない。その苦肉の策が友人の釧路新聞社長白石義郎に計った小樽日報の創設である。「天下の山勇、未だ健在‼」の陽動作戦にほかならない。

 南米での事業は日本花火の移植で手廻りの持物を現金に換え千円ばかりふところにした彼は、陸軍大将の古軍服を着るという稚気あふれるポーズで神戸を発った。時に明治四十一年三月三十日四十九才であった。

 しかし六・七倍の利益をあげた花火の事業も行き詰まり、ウルシ器製造もマーケットがなくて失敗。リオ市の雑貨店も三年で頓挫した。アラルアマ郡イビランに農園一万五千歩を開いたが湿地で失敗。アカエ郡のコーヒー園も不調。北海道での水産稼業の夢も忘れず漁業にも乗り出したがこれも失敗。そうこうしているうちに風土病に倒れ弓折れ失尽きて帰国した。九州福岡病院で療養したがそれでも相変らず鼻ッ柱が強くて友人が後添えをすすめると。

 「俺が女房をもらうなら南米王の妹か娘さ日本男児の血をうえつけたいからな」しかしその血は南米はおろか日本にも残らなかった。彼は経倫抱負を伝える人もなく大往生したのである。

 

 

~小樽豪商列伝(4)

 脇 哲

 月刊 おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より