日中戦争勃発と小樽 72

2019年10月10日

 1937年(昭和12ねん)勃発した日中戦争について、以前このHISTORY・PLAZA二点おたるの空襲に備えた防護団組織(8分団)のことや、防空演習の心に映った少女の作文を紹介した。

 今年は戦後50年(太平洋戦争)ということで、この戦争をふり返る映像や記事が毎日の様に報じられている。しかし、この戦争は明治の日清戦争、日露戦争、昭和に入ってからの満州事変へとつながっているのである。

 満州事変、支那事変(日中戦争)で何故、日本政府は戦争ということばを使わなかったのだろうか。支那事変を日中戦争、大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶようになったのは戦後である。

 ここに改めて日中戦争が起ったころのおたるについて、一つの角度からみつめてみたい。

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 日中戦争が勃発した7月、この月に小樽在郷軍人会は緊急大会を開催して戦局にのぞんだ。新聞の見出しは「街に高鳴る愛国の鼓動 非常時の秋」「乙女の胸も躍る赤十字のもと 従軍看護婦志願小樽に殺到」「銃後の婦人」「吾等皇軍の精鋭かくして戦線へ」「小樽で補充兵の教育」「飛行機献納への青年団の奉仕」「家庭生活の節約」……などと記されている。

 小樽の官公庁は、銃後後援会、悪思想の防止、流言に関する件、軍人遺族慰問、隣保扶助の精神、振作の件などの対応に当った。

 本年1月阪神大震災の折は戦時とは異なるが、非常事態に対して流言にまどわされないこと、隣人が扶け励まし合うことが叫ばれたが、この度の大震災と共通するものがあったと思う。

 小樽の青年団強化策としては25歳まではみな団員として分護団にも加入して活躍した。また小樽のカフェー連体女絵矯風会や北華会のホステスさんの総メンバー150人も「昼より夜に続くよろこび」と新聞にも報じられて、愛国婦人会、国防婦人会と行動を共にして、出征兵士の見送り、応召遺族慰問や、軍人の弾よけのまじないとして1人1針が結ぶ千人針の街頭活動、慰問袋の作成、勤労奉仕などの活躍をした。

 これらは、自主的というよりある強制によるものであったことが現在とは異なっている。

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 この年から映画はタイトルの前に「銃後を守れ」という文字の挿入が義務づけられ、小樽でも「北支の空を征く」「祖国を護る者」「海軍爆撃隊」などの戦争映画が上映されている。

 歌は、旅笠道中、流転、別れのブルース、人生の並木道などが流行したが、露営の歌などの軍歌も広まった。特に内閣情報部選定と文部省検定の愛国行進曲がビクター、コロムビアから発売され、この歌は義務のように歌わされた。(レコードの価格は1枚1円であった)。タバコはこの年から「翼」が発売されている。

 10月の上海陥落、續く南京陥落のときは小樽商工会議所や商業連合会は旗行列、ちょうちん行列をしバンザイを叫んだが、小樽は港があり外国船の出入りも多かったことから、他都市に比べ防諜というスパイ防止に神経をとがらせて、警察の人も英会話の勉強を開催している。

 また、鉄製品の軍への供出ということで、小樽では明治42年から昼の時間を告げる大砲で区民や市民から「ドン」と言って親しまれたものがこの年に廃止になった。

 この緊急協調体制時に生れた赤ちゃんも今年58歳になる。

国債や貯蓄奨励のポスターや電柱の看板にも銃後の護りや銃後の力という文字が記されていた。

銃後の護りということで、日常に使う和裁の針が入っていた紙袋などの商品にも戦時色が色濃くなった。

~HISTORY PLAZA 72

小樽市史軟解 第3巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成5年11月~7年9月号連載より