一枚のちらしにみる 19
2019年04月05日
昭和14年に印刷された一枚のちらし(次項のもの)がある。タテ15センチメートル、ヨコ10センチメートルの大きさである。
文字は木版画、図柄は銅版画かペン画のように見えるが、構図は美術作品を思わせるように興味をひくドイツ国展覧会の宣伝印刷物である。
この展覧会は、昭和14年8月20日より30日まで小樽の〇井デパートで開催された。主催はドイツ大使館と日独文化協会。後援は北海道庁、小樽市、小樽新聞である。
展示の内容は、ドイツの原始時代から第1帝国までの歴史資料。ゲルマン民族資料。第3帝国としての国威を示すものと、国立博物館所蔵の美術品であったという。
会場は同デパートの3階別館であった。当時は文化的催し会場としてこの別館と4階にも展示場があった(戦後、全道に先駆けて開催した市展もこの別館が会場であった)。
日本とドイツとの関係は、昭和12年に日・独・伊(日本・ドイツ・イタリア)防共協定がローマで調印されている友好親善国であった。昭和13年にはヒトラー・ユーゲントが来日し、本道においても支笏湖で歓迎と親善のキャンプを開催している。ところが、この昭和14年はその関係が複雑な年となったのである。特に、小樽でドイツ国展覧会が開催された期間中とその閉催直後に大変な事態が起った。
初日の8月20日、ノモンハンでソ連の大機動部隊が日本軍に総攻撃を開始、日本軍の一個師団が壊滅して大敗した。
8月23日、独ソ不可侵条約がモスクワで調印された。このヒトラーとスターリンのかけ引きにとどまった条約を、日本の平沼内閣は、8月28日「欧州(ヨーロッパ)情勢は複雑怪奇」と声明を出して総辞職した。小樽での展覧会が終了した翌31日には阿部信行(陸軍大将)内閣が生まれた。
そして、その翌日の9月1日には、ドイツの陸・空軍がポーランドに進撃を開始して、第2次世界大戦へと戦火が拡大していったのである。
この展覧会を後援の小樽新聞社は、事前に内容を知らせる記事は書いているが、開催初日から終了までの展覧会に関する動向は、一切報道していない。これは国内外の急変から推察してうなずけるような気がする。小樽市民はどのような気もちでこの展覧会を見たのだろうか。
弁当箱のごはんの真中に梅干し一つを置いた‶日の丸弁当〟と、先述の‶複雑怪奇〟ということばが、この昭和14年の流行語になった年である。
第2次世界大戦は大きな戦争であったが、昭和20年5月、ドイツは連合軍に無条件降伏し、国は東西に分断された。8月には日本も降伏して大戦は終結した。
あれから45年が過ぎた。平成のいま、東西ドイツの統一が現実のものとなった。昭和46年、私がドイツを訪れたときにも、戦争の傷跡が根深く残っていることを肌で感じた。ベルリンの壁を視察した時の感情は忘れられない。更に東ベルリンに入るときには、チェックポイント・チャーリーの検問を通った。時の流れと急変の軌跡に考えさせられるものがある。
また、ミュンヘンのビアホールに友人3人と行ったとき、円卓に数人のドイツ人と同席し談笑した。帰る間際になって、この年配のドイツ人たちがポケットから出して見せてくれた写真をみておどろいた。ナチ・ドイツ将校の軍服姿のものであった。それを一人ひとり持っていて、戦争のきずなを引きずっていることを知った。再び昭和14年に戻るが、この年に日本で上映された洋画に、今でも名作として語り継がれている「格子なき牢獄」と「望郷」という映画があった。
スクリーンではなく、現実としてこの「格子なき牢獄」に主演した美人女優コリンヌ・リュシエルは、第2次大戦中にナチに協力したということで投獄され、戦後さびしく病死した。
「望郷」(ペペル・モコ)でジャン・ギャバンと共演した妖艶女優ミレーユ・バランも、20年ほど前にニースの養老院で孤独のうちに亡くなったというが、人生というものに想いが深まる。
いま、半世紀前に小樽で開催されたドイツ国展覧会のちらしを見て、私はいろいろなことがオーバーラップしてくるのである。
小さな一枚の紙片ではあるが、その中に世界があって、日本があって、そして小樽があった。
~HISTORY PLAZA 19
小樽市史軟解 第1巻
岩坂桂二
月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より
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