電話九十年―小樽 20

2019年03月18日

 今年(平成二年)は電話事業一〇〇年(小樽は九十年)の年であった。

 この年を記念してNТТ小樽支店は先に運河プラザで資料展を開催。更にNТТ情報プラザでも写真を含めた貴重な資料を展示している。そして10月22日には、小樽グランドホテルにおいて記念祝賀会を開催した。

 そこで本号は、小樽で大きな実績を残してきた電話事業について振り返ってみたい。本来ならば、電信事業も併せるべきであるが、紙面の関係でここでは割愛させていただきたい。

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 「北海道の電信電話史」(電気逓信共済会北海道支部発行)は立派な資料をまとめている。『グラハム・ベルによる電話機の発明は明治9年。逓信省がこれを実用化し。東京~熱海間に1回線設けて初めて電話を開通したのが明治22年であるが、東京と横浜で交換事務を開始したのが明治23年12月16日であった』今年が電話一〇〇年というのは、この年が起点となっているのである。

 北海道における交換事務は、それから10年後の明治33年3月1日である。私設電話はそれ以前からあり、小樽も明治13年に手宮~札幌間の鉄道開通に伴い、鉄道専用電信が架設され、明治17年には、手宮~札幌間の電信線も電話に変わっている。

 『電話交換局の開局は、札幌が明治32年7月26日、小樽は同年8月1日であった。明治33年3月1日、札幌電話交換局内に大通電話所が儲けられ、小樽は色内町電話所(小樽郵便局内)を設けた』。当時の古い市内地図をみると、現在の郵便局の上隣りあたりに位置していた。

 電話交換手は、創業当時は男子だったが、明治32年の交換手募集の広告には男女とある。募集人員は函館が17名、小樽が15名、札幌が11名であったが、応募者が多く、狭き門であったという。

 北海道の交換手は、明治38年以降は女性のみの職場となっている。小樽の交換手の服装は、明治40年ころから黒しゅすの筒袖であったが、大正初期には白の上衣に袴(はかま)姿に変わっている。

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 大正11年ごろ、小樽の電話加入数は全道一であったという。そこで局舎を新築し、同時に供電式を実施することになり、現在NТТの斜め向い(稲穂1-6の駐車場)のところに建設した。この工事は大正12年に起工し同13年に完成した。

 「北海道の電信電話史」によると『近代ルネッサンス式の堂々たる建築(次項写真)で、電話交換局としては、東北・北海道に比肩するものがない、最新式のすべての設備が施されている』と記してあるが、小樽の中心街にあって存在感と重量感を誇示するものであった。 

 そして大正14年6月14日には、この小樽に本道最初の供電式局が誕生したのである。この折に、「供電式電話竣工記念絵はがき」が小樽で発行されている。供電式の機器と、和服姿の交換手(次項写真はその一部)。更に建物の一を示した略図の3枚である。そして、略図の枠内には、小樽の人口12万4670人、電話加入者数3541と記してある。 

 庁舎建築費は、器具費を含み24万6918円、供電式電話工事費75万3108円敷地費13万500円となっている。

 この建物は電話分室から小樽電話局として長年にわたり使われていたが、昭和31年5月、現在のNТТ局舎新築(現在のところ)によってその機能も移転した。そして同年12月から交換方式も供電式から自動式へと移り変わったのである。 

 長い間、実績を残した旧舎は4年前の昭和61年にその姿を消したが、市民はその存在を思い出として語り継いで行くことであろう。私は過去に、その建物の内部をみているが、交換手の休けい室の広さに驚嘆した記憶を持っている。  

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 昭和26年ころは、職場のレクリエーション活動も盛んであった。私も大勢の電話交換手の人と、手稲のわらび狩りや、島松のスズラン狩りに行った青春の思い出がある。また、市の市長室に在職中はNТТお客様こんわ会の委員として、電話について勉強させていただいた。

 「人から人へ こころ伝えて90年」の祝賀会は、これが世界に通じるパーティーと思う。思われるほどスマートなものだった。

 小樽のNТТ現在のライン・スタッフは前向きで、市民と共に歩む姿勢は好感がもてる。市民の一人、ユーザーの一人として心から電話一〇〇年(小樽九〇年)をお祝い申し上げたい。

 

今は姿を消した電話局の建物(昭和27年撮影のもの)

昭和11年の電話番号簿

大正時代の電話交換手

   ↑大正14年共電式電話竣工記念式の日

本年10月小樽グランドホテルで開催された小樽電話90年記念祝賀会

~HISTORY PLAZA 20

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる

平成元年5月~3年10月号連載より