古き良き「小樽のひとよ」「うちは前だれ姿が第一」小樽高商開学精神~⑯

2019年01月06日

 ‶昇格〟したボク

 

 我々世代は「商大」なんて言ってもピンとこない。終戦後しばらく」小樽経専といった時代もあったが、小樽高商は小樽高商、懐かしの記憶のスペースに収まるのはそれしかない。

 なにやら、えらく固執の態だが、かくいう愚生がほんのいっとき「小樽高商」の肩書で新聞に名が出たせいかもしれない。

 やはり話は古い。

 昭和十二年十一月、東京芝公園グランドで行なわれた東日本陸上新人大会で、北海道からただ一人選出されて三段跳に出場した私は、並居る東京各大学の新人を総なめにして、十四㍍いくらかで優勝したが、その時の私の所属は、「小樽南支クラブ」だった。

 それをよせばいいのに申込書に崩し文字で小樽南支と書いた。崩せばそう読めるかもしれない。新聞通信社は「小樽高商」と判読して配信したのだ。

 その頃から、テレビがあるわけではない。二日ほどして、小樽へニシキを飾ったら、

 「おい、オクダ、お前いつから高商へ入った?」

 と妙な顔をするヤツがいる。

 つき出す新聞を見たら、私の写真に記事が出ていて「奥田二郎(小樽高商)」となっている。‶ビックリするやら、東京で学歴詐欺したみたいで恥ずかしいやら、だが、小樽新聞の運動部の連中は、私が高商でないことは百も承知であったはずだ。が、誤報のスキ間が奈辺にあるかは後年、新聞のめしを食うにいたって大分わかった。

 

 初の‶北の早慶戦25―0〟

 

 さるにしても、朝、昼、晩、跳んでハネてる気違いが、逆立ちしたって高商に入れるはずがない。高商は優秀な選手も無試験でパスするところではない。高商のフリーパスは、中学三年間の成績が十番以内というのが創設当時のオキテになっていた。

 それでも、東京の親戚には新聞の切り抜きをおくった。誉めてくれたねェ、文武両道だって。それはそうだろう、私が早稲田に入る時、オヤジが東京の親戚に送った手紙には「豚児をよろしくお願い申上候」とあるその豚児が高商に早変りなのだから、文武もきわまれりだ。で早稲田のパスは?これは極秘中の秘。当時、豚児、愚息の輩が潜入できる手はここにあった。

 私事汗顔。

 明治四十五年、つまり一九一一年の開校二年目に、小樽高商は早くも野球をやっている。かの有名な三高寮歌「紅萌ゆる」が明治三十九年作で、北大寮歌の一つ「都ぞ弥生」が誕生したのが、この四十五年だ。

 初の対抗戦は、その東北帝大農科大学(北大の前身)で、さぞや3―2、いや6―4くらいか、なにせ北大の野球は歴史的な先輩であるから勝ちはしないが、ある程度まではと思うのがアサハカなところで、結果はあんた

 25―0

 小樽高商の開校時からの特色は「商業学の原理を研究する学者をつくるのではなく、銀行の窓口や商品知識について即座に役立つ実践者を要請する学校にする」

 という渡辺竜聖校長の開学精神が貫かれたことであろう。竜聖の名が示すがごとく坊さんの出の校長だが、北大予科のようなバンカラを嫌い、ハイカラになるよう校風を築いたのも彼である。

 

 エライさんがたくさん

 

 小樽高商の初期の教授で著名なのは、若くして他界して秀才大西猪之助や、後に日本経済学界の新星と言われた手塚寿郎で、その弟子には後の学長実方正雄あるいは、後の札幌商大学長室谷賢次郎、一時は社会党の知事候補にされた南亮三郎、さらには椎名幾三郎小林象三木曽栄作大谷敏治ら多士済々だが、渡辺初代校長のあとはスキーのジャンプをやった伴房次郎、三代目が‶ミスター高商〟の苫米地英俊、四代目が大野純一(商大初代校長)続いて加茂儀一、実力となっていくが、大野あたりが高商を大正八年に卒業している。大正四年卒では、日本財界の雄・佐々木周一(三井物産)が、しばらく緑丘会の理事長をやっていたが、今は誰だか知らない。

 私の知っているのは、私の中学で英語を高商と兼任で教えていた浜林生之助、あるいは英人マッキンノンなどだが、戦争で人脈が一変し、戦後の二十一年に商大昇格に動いたのは、商大期成会会長の松川嘉太郎と、その周辺であった。

 早くに財界で名を成した卒業生は進藤孝二片岡亮一安藤東吉佐藤英治萩原栄畑信太郎小武海鉄郎真野潤造早川和男石田平八小西征夫武内武鳥山泰雄三浦政治村山安蔵、地元の杉江仙次郎の後継者杉江猛、スハラ食品の村山兄弟その他書ききれないが、別格で伊藤整小林多喜二、それに拓銀五味彰ら。いやいや文化の日じゃあるまいし、エライさんの名を並べても始まらないのだが、右の者学歴詐称にあらず、がこの拙文。

小樽高商、むかしの実践的授業風景(「北海道百年」より)

 

~見直せわが郷土史シリーズ⑯

小樽市史軟解

奥田二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

学生会館に入ると

嬉しいですね  当初のものを大切に

こんな景色や

こんな景色を眺めながら

学業に励んだのでしょう

そして、

今日も長靴で

一本目の地獄坂へ

お目当ては 桜の標準木 の後ろの建物

小樽警察署(そうそう、警察署内はカメラ撮影禁止、だそうです)

17日落しちゃったんです

名前を登録していたので、連絡がありました

『小樽の皆さんは心優しいんですよ。』

(誰?二度あることは三度ある と言っているあなた)

 

でも、さすがに、二日にわたって地獄坂や自宅前の坂、を上り下りすると、くたくたです。

国道5号線から自宅へ向かう坂=背負いの坂(自称)

「くたくたの理由はそれだけじゃないと思います?」

市場へ

寄って

よって

yotte

岸壁に

寄って

よって

熊碓海岸に寄るからだと思います

『だって、小樽はどこに行っても楽しいんです』

~2018.12.21~