明治人の小樽③~㉑

2019年01月06日

「商売は別さねぇ」

 戦前、札幌一のカフェーだったススキノのエルムの前で夜の談義がはじまる。

「きょうは不景気のようだ。あまり金持が来ていないぞ」

「まだ十時まえだ。これからだ。キミのクルマの調子はどうだ」

「女心とエンジンは秋の空」

「ハッハッハ。でもな、いつまでもこんなことやってないぞオレは」

「オレだってそうだよ」

 札幌の紳士があつまる歓楽場。その入口にむらがるのは客待ちのハイヤーの運ちゃんたちで、のちに北交をきずいた柴田安三郎がおれば、のちの代議士寿原正一(故人)もいた。

 寿原正一は十七歳で古平の家をとび出して札幌へ来た。質屋に入れるものもなくその日の宿代もなく、創成川っぷちをフラフラ歩いて、

「運転手見習求む。カネ長富樫」のハリ紙をみつけた。

 カネ長は戦後すぐに札幌商工会議所の会頭になった富樫長吉(二代目)の水産加工販売業で、ここで運転をおぼえた寿原正一はまもなく日の出ハイヤーの運ちゃんとなり、戦後は上京して寝台ハイヤーに入って労組の委員長になった。

 これがきっかけでのし上がり、やがてハイヤー会社の社長になり、三十五年に代議士に当選して色々と話題をのこすことになるのだが、古平でカマボコなどつくり、後に小樽へきた寿原要太郎は寿原弥平次の義兄であった。

 寿原一族の系図を大まかに示すと、

七代弥平次—八代弥平次—外吉—豊

      要太郎—正一

      重太郎—村山美喜生—裕

      猪之吉—英太郎—九郎—良高

となる。

 有幌へきたのは八代弥太郎で、有幌で成功してから入舟町に移り、ここに弟の重太郎、義弟の猪之吉を呼んで三兄弟合力して商売を大きくしていった。

 ところが弥平次も養子だが、要太郎も養子で、要太郎は同じ北海道に来ながら、なぜか他の兄弟とははなれている。その子の正一も寿原一族から白眼視され、代議士になってからようやく一門の出入りをゆるされたとあるが、そのいきさつは第三者には明らかにされていない。

 また末っ子の重太郎は弥平次に学資を出してもらって当時としては最高のインテリになる東京高商を卒業してから小樽へきて弥平次を手伝うようになったものの健吉というのちに大学教授になる実子がありながら、自分の娘を南洋がえりの村山と一緒にさせて後継者としている。

 だから一族で寿原の名でなかったのは村山だけで、寿原ではめずらしいことだといわれたものだ。

 つまり女婿でありながら、自家名を通したということだが、系図にゴシックで示したとおり弥平次、要太郎も女ムコなら弥平次が入れた寿原外吉の本姓も酒井、その後継の豊も娘ムコ、猪之吉も養子でその子の英太郎のところの九郎(故人)も娘ムコなのである。

 右を向いても左を向いてもムコ養子ばかりだ。伝えきくところによると、北陸方面は実子がダメなら養子をいれて商売を維持する慣習があるとのことだが、寿原一族はそのサンプルだ。

 やがて弥平次の商売が大きくなり、弥平次自体も骨を小樽に埋める気がないので、商売を三つに分けた。一つは売上の大きい板ガラスや金物を今のスハラ商事(弥平次、外吉)一つは舶来品化粧品などのスハラ産業(猪之吉、九郎)、スハラ食品(重太郎、村山)ということで今日にいたるが、このうちスハラ産業がリタイヤになったほかは、二大企業大いに繁昌している。なぜスハラ産業を一門が助けないかと普通なら疑問視しようが、三つに分散するとき弥平次が「お互いの商売の邪魔をしない」ことを猪之吉、重太郎にいいわたしているからである。ウラをかえせば一門としてのつき合いは欠かさぬが、商売上のことには一切触れないということだ。養子同士ならおセンチは無用だ。

立岩附近のアイヌ 明治七年(市史)

行商は往く

スゲ笠づくり

~郷土見直せわが郷土シリーズ㉑

小樽市史軟解

奥田二郎 より

~2018.11.27~